鍵のかかった教室 第1話
放課後の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む夕陽が床に長い影を落とし、校舎全体がゆっくりと夜に沈んでいく途中のようだった。遠くで部活動の声が響いているが、この廊下まで届く頃には、別の世界の音のように薄れていた。
佐伯は胸ポケットを探り、指先に何も触れないことを確認すると、ひとつ息を吐いた。
――数学のノートを忘れた。
今日に限って復習しようと思っていたのに。
教室の前に立ち、ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触のあと、カチリと硬い抵抗が返ってきた。
……鍵が、かかっている?
昼休みに出たとき、鍵などかけていない。
誰かが後から施錠したのか。それとも、まだ誰かが中に?
胸の奥がざわついた。
理由は分からない。ただ、触れてはいけないものに手を伸ばしているような感覚があった。
耳を澄ませるが、気配はない。
薄暗い窓の向こうに机の影が並んでいるだけだ。
それなのに、誰もいないはずの教室が、こちらをじっと見返しているように感じられた。
佐伯は職員室へ向かった。
鍵を借りるだけの、ほんの数分のはずだった。
担任の机の前で事情を話すと、教師は眉をひそめた。
「三浦の様子、最近おかしかったんだよな……」
独り言のように漏れたその言葉が、胸の奥にひっかかった。
佐伯は顔を上げたが、担任はすぐに表情を戻し、鍵を手渡してきた。
「気をつけて戻れよ。もう暗いからな」
曖昧に頷き、廊下へ戻る。
手にした鍵が妙に重い。
この鍵を使うことで、何か取り返しのつかないものを開いてしまう――そんな予感があった。
教室の前に戻り、鍵穴に差し込む。
ゆっくりと回すと、ガチャリと重い音がして、ドアがわずかに開いた。
その瞬間、佐伯の呼吸が止まった。
教室の中央――
倒れている人影。
動かない腕。
割れたガラスコップが床に散らばり、机の上には書きかけの紙切れ。
佐伯は声を失った。
その影が三浦だと気づくまでに、数秒かかった。
「……三浦?」
自分の声が、教室の静寂に吸い込まれていく。
昼休みに見た三浦の姿が脳裏に浮かぶ。
少し疲れたような顔をしていたが、死を選ぶような表情ではなかった。
――違う。こんなはずじゃない。
心のどこかが否定していた。
だが、倒れた身体の輪郭も、着ている制服も、見慣れたものだった。
一歩、後ずさる。
床を擦る音がやけに大きく響いた。
その音に反応するように、三浦の腕がわずかに動いたように見え、佐伯は息を呑む。
「……生きてる?」
期待とも恐怖ともつかない感情が胸を締めつけた。
だが、次の瞬間には分かった。
動いたのではない。
蛍光灯がちらつき、影が揺れただけだ。
震える指先でスマホを取り出す。
担任に電話をかけようとしたとき、視界の端に“何か”が引っかかった。
机の上の紙切れ。
「ごめ……」と書かれた文字。
その続きが書かれなかった理由を考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
書けなかったのか。
書かなかったのか。
それとも――誰かに?
廊下の向こうから足音が聞こえた。
複数の足音。
教師たちの声。
現実が、急速にこちらへ押し寄せてくる。
佐伯は開け放したドアの向こうを見つめた。
――この教室は、何かがおかしい。
廊下の向こうから近づいてくる足音は、次第に数を増し、教室の前で止まった。
佐伯は振り返る。
担任と、数人の教師が立っていた。
その表情を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた不安が、はっきりとした形を持った。
担任が佐伯の横を通り、教室の中を覗き込む。
そして、短く息を呑んだ。
「……三浦」
その声は、驚きよりも、どこか確信めいた響きを帯びていた。
佐伯はその微妙な温度差に、言葉にできない違和感を覚えた。
別の教師がスマホを取り出し、素早く通報する。
教室の空気が、急に現実味を帯びて動き始めた。
さっきまで静止していた世界が、急に音を取り戻したようだった。
佐伯は壁際に下がり、教師たちの動きを見つめた。
誰も三浦に触れようとしない。
ただ、距離を置いて見つめている。
その光景が、妙に冷たく感じられた。
担任が佐伯の方を向いた。
「佐伯……見つけたのは君か?」
「……はい」
声が震えた。
担任はゆっくりと頷き、言葉を選ぶように口を開いた。
「何か、変わったところはあったか?」
佐伯は迷った。
“変わったところ”が何を指すのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に残っているざわつきだけが、答えを急かしてくる。
「鍵が……かかってました。昼休みには、かけてなかったはずなのに」
担任の表情がわずかに動いた。
驚きとも、納得ともつかない微妙な変化だった。
「鍵が?」
「はい。だから、職員室で鍵を借りて……」
言いながら、佐伯は自分の言葉がどこか現実味を欠いているように感じた。
まるで、誰か別の人間の出来事を語っているようだった。
担任は短く息を吐き、視線を三浦へ戻した。
その横顔には、後悔のような、諦めのような影が落ちていた。
「……三浦は、最近ずっと不安定だった。相談に乗ろうとしても、話してくれなかった」
その言葉は、佐伯の胸に重く沈んだ。
昼休みに見た三浦の表情が、別の意味を帯びて蘇る。
――気づけたはずだったのか?
そんな問いが、静かに胸を刺した。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてきた。
教師たちが廊下に出て、警察を迎える準備を始める。
教室の中に残されたのは、佐伯と三浦だけになった。
静寂が戻る。
だが、さっきまでの静けさとは違う。
今の静寂は、何かを隠しているような、重たい沈黙だった。
佐伯は机の上の紙切れに目を向けた。
「ごめ……」と書かれた文字。
その筆跡は、震えているようにも、急いでいるようにも見えた。
――本当に、三浦が書いたのか?
そう思った瞬間、胸の奥にあった違和感が、はっきりと輪郭を持った。
鍵がかかっていたこと。
書きかけの文字。
割れたガラスコップ。
どれも、説明がつくようでつかない。
そして、ひとつの考えが浮かんだ。
――これは、自殺じゃないのかもしれない。
その考えは、恐ろしく、しかしどこかで納得できるものでもあった。
佐伯は息を呑み、三浦の方を見つめた。
「……どうして」
その小さな声は、誰にも届かず、教室の空気に溶けていった。
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