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680円の珈琲

作者: 雪城 冴

 梨香はある日、人生の大体のイベントが終わっていることに気がついた。


 結婚式

 妊娠

 出産

 マイホーム購入


 あと残っているものと言えば、子どもの成人式や結婚式だろうか。それはもちろん楽しみだ。

 だけどそれは梨香のイベントではない。


 残された自分が主役のイベントと言えば、葬式くらいしか思いつかなかった。


 そんなことを考えながら歩いていると、いつもの看板が見えてきた。

 

 【コーヒー 680円】


 最近家の近くに新しくできたコーヒーショップ。駅から少し距離はあるが、人通りが多い場所なので意外と客入りは良い。


 梨花はいつも、通り際に横目でチェックしていた。

 入ったことはない。高いからだ。


 コーヒー1杯に出せる値段は人によって違うだろう。


 ただ、梨香にとっては――少なくとも子育て中の今の梨香にとっては、コーヒー1杯680円はなかなか痛かった。


 今日も素通りする。

 

 秋に終わりを告げるこの時期。木は落葉し、地面は落葉で覆われていた。

 踏む度にサクサクという音がする。それを聞きながら、梨香はぼんやりと思い出す。


 最近は異世界に転生して、そこで現世とは違う楽しい人生を送る。という小説や漫画が流行っているらしい。


 確か、娘が読んでいた。


 【異世界転生したら絶世の美女で、プリンセスでした★婚約してる皇太子に捨てられちゃうけど、隣国の王子に溺愛されて!?】


 とかそんなタイトルだった気がする。

 確かに、それも悪くない。


 別に梨香は自分が不幸だと思っているわけでも、死にたいわけでもない。


 どちらかといえば自分は幸せだと思う。人生のイベントをほとんど終えたのも、堅実に生きてきた証拠だ。


 だが、もし。もしもだ。

 もしも転生して好きに人生をやり直せるならどうするだろう。


 どうせ転生するなら、物凄い美人で、頭脳明晰で、隠れた才能もあって、大富豪がいいな。


 そして、そんな私以上に才気あふれる男性と出会って大恋愛をする。


 それから結婚して……


 そこまで妄想して、ふと思考を止めた。


 結婚してどうなるのだろうか。


 結婚した後は、家を買って、妊娠出産するんだろうか。

 どんなに大恋愛しても美男美女でも、結婚した後は切れ間なく続く日常生活が待っている。


 そうなると、もしかして転生したところで結局今と同じ人生なのかもしれない。


 置かれた場所で咲きなさいとはよく言ったものだ。

 

 また葉が一枚、風に揺られてひらひらと舞う。

 梨香はその葉が落ちたのを見届けると、今来た道を引き返した。


「いらっしゃいませ」

 ドアを開けるとコーヒーの香りが漂う。カウンターに座ると梨香は言った。


「コーヒー1つお願いします」


 差し出されたカップを両手でそっと包む。冷えた手がじんと温まるのを感じた。


 お時間いただきありがとうございました。たった680円、されど680円。自分のために時間やお金を使う機会を大切にしたいと考えています。

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