灯の在り処
終電を逃したのは、わざとじゃなかった。
会社の送別会で、もう二度と会うことはない上司に「最後だから」とビールを注がれ、断りきれずにグラスを重ねていたら、気づけば日付が変わっていた。
駅の階段を駆け上がったとき、ホームにはすでにテールランプの赤い光が遠ざかっていくところだった。
スマホの時計は0時14分。
タクシーで帰るには、給料日前の財布が寂しすぎた。
私はふらりと駅前のベンチに座り、缶コーヒーを開けた。
秋の風が、思いのほか冷たい。
吐く息が白く滲むそのとき、隣に誰かが座った。
「また終電、逃したの?」
声を聞いて、胸の奥が跳ねた。
顔を向けると、そこにいたのは――高校の同級生、灯だった。
「……灯?」
「久しぶり。まさか、こんなところで会うとはね」
十年ぶりだった。
制服の頃と同じ、少し猫のような目尻。
だけど輪郭は少し大人になって、髪は短くなっていた。
「なんでここに?」
「私、駅前のカフェでバイトしてるの。閉店後の片付けが終わって、今帰るところ」
灯はそう言って、手に持った紙袋を少し揺らした。
「余ったケーキ。よかったら食べる?」
「……いいの?」
「もちろん。どうせ捨てるだけだから」
白い箱を開けると、小さなチーズケーキが二つ。
ベンチの上で、ふたりでそれを分け合った。
「高校のとき、覚えてる? 文化祭でケーキ作ったじゃん」
「覚えてるよ。あのとき、灯が全部仕切ってた」
「仕切ってたっていうか、誰もやらなかっただけ」
灯が笑う。
その笑い方が、十年前とまったく同じで、胸の奥がきゅっと痛んだ。
あの頃、好きだった。
けれど伝えられなかった。
卒業式の日、教室の後ろで写真を撮ったあと、灯は転校するみたいに急にいなくなった。
どこへ行ったのかも、誰といるのかも知らないまま、大人になってしまった。
「ねえ」灯が言った。「あのとき、私、引っ越したの」
「……聞いた」
「家の事情。東京に出て、最初は全部イヤだった。でもね――」
灯は少し間を置いて、夜空を見上げた。
「今日みたいな夜、たまに思い出すの。駅のベンチでさ、あんたと話したこと」
「俺と?」
「うん。たぶん、最後の日だったと思う。寒い夜で、ホットココア飲んでた」
「……覚えてる」
あの夜も、こんな風に息が白かった。
灯が泣いていて、理由を聞けなかった。
ただ隣に座って、温かい缶を渡しただけだった。
「ずっと聞きたかったんだけど」灯が小さく笑う。「あのとき、どうして何も言わなかったの?」
胸の奥がずきんと痛む。
「……言えば、泣いてる理由を、聞けたのかな」
「たぶんね」
「でも、怖かった」
「何が?」
「聞いたら、灯がいなくなる気がして」
灯は少し驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。
「やっぱり、優しいね。昔から」
しばらく沈黙が落ちた。
駅のアナウンスが遠くで響き、タクシーが数台、客を乗せて去っていく。
時計の針は0時半を回っていた。
「ねえ、これからどうするの?」
「始発まで、ここにいるしかないかな」
「だったら、うち来る?」
「え?」
「駅から五分。狭いけど、ソファなら寝られる」
冗談かと思った。
けれど灯の瞳はまっすぐで、そこに嘘はなかった。
「いいの?」
「終電逃したの、運命ってことにしよ」
灯が立ち上がり、コンビニの明かりを背に微笑む。
昔のままの笑顔。けれど今は、少しだけ大人の温度を帯びていた。
ふたりで歩いた夜道は、静かで、冷たい風が頬を撫でた。
でも不思議と、寒くはなかった。
灯の部屋は小さくて、カーテン越しに街灯の光が柔らかく差し込んでいた。
マグカップを差し出され、温かい紅茶の香りが広がる。
「こうやってまた会えるなんて、思わなかったね」
「俺も」
「でもさ、私、あのとき――」
灯が言葉を探すように、マグカップを見つめた。
「本当は、あんたのこと、好きだった」
心臓が跳ねた。
十年分の時間が、一瞬で溶けていく気がした。
「……俺も」
その言葉は、ようやく口を突いて出た。
ずっと胸の奥で、凍っていた言葉だった。
灯が、目を細めて笑った。
窓の外で、始発前の風が少しだけ強く吹いた。
「なら、これで少しは帳消しね」
「何の?」
「十年前の沈黙の分」
彼女の指先が、私の手に触れた。
あのとき渡したホットココアよりもずっと温かかった。
――夜が、静かに明けていく。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込む。
灯の名前の通り、そこに小さな“あかり”があった。
それは、十年前からずっと探していたものだった。




