第8話「先生のお話です」
**【関連資料・出典】**
- 八ヶ岳SDGsスクール「新自由主義と学校教育」(2021年5月17日):1980年代イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権が採用した施策がその典型
- Wikipedia「新自由主義」:ワシントン・コンセンサスが成立し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、産業政策の禁止、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策が体系化した
- 長周新聞「新自由主義と公教育の危機」(2021年2月22日):教育は個人に対する「付加価値的な投資」とみなされ、お金を出せば市場で買える「商品」へと形を変える
- Wikipedia「聖域なき構造改革」:「官から民へ」「中央から地方へ」を改革の柱として、郵政民営化、道路関係四公団の民営化、政府による公共サービスを民営化などにより削減し、市場にできることは市場に委ねること
- しんぶん赤旗「義務教育費/国庫負担『廃止』は教育条件引き下げる」:「三位一体改革」の柱として地方交付税総額の縮小が据えられていることで、県財政全体で深刻な財政難に
月曜日の放課後。いよいよ明日に迫った市議会での発表を前に、3年2組の教室では最後の確認が行われていた。しかし、生徒たちの表情には不安の色が浮かんでいる。
「先生」葵が振り返った。「私たち、昨日の結論について確信を持てずにいます」
天野先生は椅子に座り、生徒たちと同じ目線になった。
「どうして?」
健太が困ったような表情で言った。
「構造改革とか新自由主義とか、俺たちには難しすぎて…本当に正しく理解できてるのかわからないんです」
怜も頷いた。
「データは調べましたが、政治的背景について私たちの分析が的確かどうか自信がありません」
遥が小さく言った。
「明日、市議会で間違ったことを言ったら恥ずかしいし…」
天野先生は生徒たちの真摯な姿勢に感動した。
「君たちの姿勢は素晴らしい。謙虚で、真実を追求する気持ちがある」
「でも、やっぱり不安です」葵が正直に言った。
天野先生は立ち上がり、黒板に向かった。
「それでは今日は、君たちが発見した真実について、私から詳しく説明しよう」
「本当ですか?」健太が身を乗り出した。
「君たちの分析は、実に的確だった。今日はその背景をもっと詳しく話そう」
天野先生は黒板に大きく「新自由主義」と書いた。
「まず、君たちが発見した『構造改革』の思想的背景から説明しよう」
葵が手を上げた。
「新自由主義って、具体的にはどういう考え方なんですか?」
「いい質問だ」天野先生が答えた。「新自由主義とは、1970年代から広がった経済思想で、『市場の力を最大限に活用し、政府の役割を最小限に抑える』という考え方だ」
天野先生は世界地図を指しながら続けた。
「1980年代に、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、そして日本の中曽根首相が、この思想に基づいた政策を実行した」
健太が疑問を口にした。
「で、小泉さんと竹中さんは、その続きをやったってことですか?」
「その通りだ。しかし小泉政権では、それまでの政権よりもさらに徹底的に新自由主義政策が推進された」
怜が資料を見ながら尋ねた。
「具体的には、どんな政策だったんですか?」
天野先生は黒板に項目を列挙した。
「『聖域なき構造改革』『官から民へ』『中央から地方へ』」
「これらのスローガンの下で、国営だったものを民営化し、国の責任だったものを地方に移し、公的サービスを市場に委ねるという政策が進められた」
葵が手を上げた。
「それって、良いことのようにも聞こえますが…」
「表面的には効率化や無駄の削減として説明された。確かに一定の効果もあった」
「でも?」遥が不安そうに尋ねる。
天野先生は慎重に言葉を選んだ。
「しかし、公的サービスの縮小は、社会的弱者にとって深刻な影響をもたらした」
天野先生は新しい図を描いた。
「新自由主義では、教育も『商品』として捉えられる。教育は個人への『投資』であり、お金を出せば市場で買える『サービス』だと考えるんだ」
健太が困惑した。
「教育が商品って…なんか変ですね」
「健太の感覚は正しい。教育は本来、社会全体で支える公共財であるべきなんだ」
怜が鋭く尋ねた。
「つまり、新自由主義的な考え方では、教育にお金をかけられない家庭の子どもは、質の低い教育を受けるしかないということですか?」
天野先生は怜の理解力に感心した。
「残念ながら、そういう側面がある。『自己責任』という名の下に、格差が拡大していった」
葵が憤慨した。
「でも、子どもに責任はないじゃないですか!」
「その通りだ。しかし新自由主義的な価値観では、『努力すれば成功できる』『失敗は自己責任』とされがちになる」
遥が震え声で言った。
「私みたいに、家庭の事情で困ってる子どもは、『自己責任』で片付けられちゃうんですね」
天野先生は遥に近づき、優しく言った。
「遥、君に責任はない。社会の仕組みに問題があるんだ」
天野先生は黒板に「三位一体改革」と書いた。
「小泉政権では、地方財政改革も同時に進められた。これが給食問題にも大きな影響を与えた」
健太が手を上げた。
「三位一体改革って何ですか?」
「国庫補助金の削減、税源移譲、地方交付税の縮小を同時に行う改革だ」
怜が首をかしげた。
「それぞれ説明してもらえますか?」
天野先生は図を描いて説明した。
「まず国庫補助金の削減。国が地方自治体に出していた補助金を減らした」
「次に税源移譲。その代わりに、国税の一部を地方税に変更した」
「最後に地方交付税の縮小。国から地方への一般的な補助金も減らした」
葵が疑問を口にした。
「税源移譲があるなら、地方自治体の収入は変わらないんじゃないですか?」
天野先生は葵の鋭い質問に頷いた。
「理論的にはそうなるはずだった。しかし現実には、多くの自治体で財政が悪化した」
「どうして?」健太が尋ねる。
「地方交付税の削減幅が、税源移譲よりも大きかったからだ。結果として、地方自治体の実質的な収入は減少した」
怜が電卓を叩きながら言った。
「つまり、国は自分の支出を減らしたけど、地方自治体の収入はそれほど増えなかったということですね」
「まさにその通りだ」
遥が不安そうに尋ねた。
「それが給食にどう影響したんですか?」
天野先生は新しい図を描いた。
「教育費は自治体の裁量的経費だ。つまり、自治体が自分の判断で増減できる予算なんだ」
「一方、社会保障費は義務的経費。法律で定められているから、削減できない」
「財政が厳しくなった自治体は、どちらを削ると思う?」
健太が答えた。
「削れる方…つまり教育費を削ったんですね」
「その通りだ。そして給食も教育費の一部として、削減対象になった」
葵が立ち上がった。
「それって不公平じゃないですか!子どもたちに何の責任もないのに!」
天野先生は葵の怒りに共感した。
「君の言う通りだ。しかし、これが構造改革の『意図しない結果』だった」
怜が冷静に分析した。
「意図しない結果ということは、政策立案者も予想していなかったということですか?」
「部分的にはそうだ。しかし、公的支出を削減すれば、どこかにしわ寄せが行くことは予想できたはずだ」
健太が拳を握った。
「じゃあ、やっぱり政治家の責任じゃないですか!」
天野先生は慎重に答えた。
「政策の責任は確かにある。しかし、その政策を支持した国民にも責任の一端はあるかもしれない」
「国民?」遥が驚いた。
「構造改革は、当時多くの国民に支持されていた。『無駄を削減し、効率的な政府を作る』というスローガンに多くの人が賛同した」
葵が疑問を口にした。
「でも、国民は給食が削られることまで望んでいなかったですよね?」
「もちろんそうだ。しかし、政策の全体像を理解せずに、表面的なスローガンだけで判断してしまった面もある」
天野先生は黒板に「政策の連鎖」と書いた。
「政策というのは、必ず連鎖反応を起こす。一つの政策変更が、思わぬところに影響を与えることがある」
「構造改革→公的支出削減→地方財政圧迫→教育予算削減→給食の質低下」
「この連鎖を、当時どれだけの人が予想できただろうか」
怜が手を上げた。
「でも、専門家なら予想できたはずですよね?」
「その通りだ。実際に、多くの教育関係者や研究者が警鐘を鳴らしていた」
「それなのに、なぜ政策は変わらなかったんですか?」健太が憤慨した。
天野先生は少し悲しそうな表情を見せた。
「政治的には、目に見える『改革』の方が、地道な『維持・充実』よりも評価されやすいからだ」
「つまり、選挙で勝ちやすいということですか?」葵が尋ねる。
「残念ながら、そういう側面もある」
遥が小さく言った。
「私たち子どもの声は、政治には届かなかったんですね」
天野先生は遥の肩に手を置いた。
「当時はそうだった。しかし今は違う。君たちのような声が、社会を変える力を持ち始めている」
「本当ですか?」
「本当だ。君たちの分析を聞いて、私も改めて問題の深刻さを認識した」
天野先生は生徒たちを見回した。
「君たちは、大人が見落としていた真実を発見した」
「どんな真実ですか?」健太が身を乗り出した。
「『効率化』や『コスト削減』という名の下に、本当に大切なものが犠牲にされていたという真実だ」
葵が立ち上がった。
「先生、私たちの結論は正しかったということですね?」
「君たちの結論は、多くの専門家の分析と一致している。胸を張っていい」
怜が安堵の表情を見せた。
「それなら、明日の市議会でも自信を持って発表できます」
「ただし」天野先生が注意を促した。「一つだけ気をつけてほしいことがある」
「何ですか?」遥が尋ねる。
「特定の政治家や政党を攻撃するのではなく、構造的な問題を指摘することだ」
健太が頷いた。
「政策は批判するけど、人は攻撃しないということですね」
「その通りだ。建設的な批判と解決策の提案に徹することが重要だ」
葵が最後に確認した。
「私たちの主張をまとめると:『給食問題は、構造改革以降の政策の価値観転換が背景にあり、子どもたちが犠牲になっている。解決策は、国レベルでの教育予算増額と、子どもを中心に据えた政策への転換』ということでいいですか?」
天野先生は感心した。
「完璧な要約だ。君たちなら、きっと政治家の心も動かせる」
健太が拳を上げた。
「よし!明日は堂々と発表してやる!」
「『してやる』じゃなくて『します』よ」怜が苦笑いした。
遥が小さく微笑んだ。
「みんなで一緒だから、怖くない」
天野先生は最後に言った。
「君たちは今日、日本の戦後政治史の重要な転換点について学んだ。そして、その転換点が現在にどのような影響を与えているかも理解した」
「これは単なる給食問題を超えて、この国の未来をどう設計するかという問題でもある」
葵が深く頷いた。
「私たちの世代が、新しい価値観を作っていかなければならないんですね」
「そうだ。君たちこそが、この国の未来を変える力を持っている」
下校時間が近づく中、4人は明日への最終確認を行った。
「プレゼンの流れは完璧ね」怜が資料を整理した。
「データも論理も揃ってる」健太が頷いた。
「そして何より、私たちには真実がある」葵が力強く言った。
遥が最後に言った。
「先生のお話を聞いて、私たちが正しい道を歩んでることがわかりました」
教室を出る前に、天野先生が声をかけた。
「君たちを誇りに思う。明日はきっと素晴らしい発表になる」
「ありがとうございます」4人が声を揃えて答えた。
夕日に向かって歩く4人の背中には、もう迷いはなかった。
新自由主義という思想的背景、構造改革の実態、三位一体改革の影響…
複雑な政治的背景を理解した彼らは、問題の本質を正確に把握していた。
そして何より、その問題を解決するための道筋も見えていた。
明日の市議会は、彼らにとって大きな挑戦となる。
しかし、真実を知った彼らに、もはや恐れるものはない。
「唐揚げ1個」から始まった調査は、ついに政治の場で花開くことになる。
果たして、中学生の声は政治を動かすことができるのか。
そして、その声は社会を変える力となりうるのか。
すべては明日、決まる。
**※ 次回予告**
第9話「学級委員会8日目 先生のお話 現在の対策とその限界」では、政府や自治体が現在取り組んでいる給食問題への対策と、それらが抱える根本的な限界について詳しく解説する。
市議会での発表を終えた生徒たちが、政治家からの反応を受けて、さらに深く現実を理解していく過程を描く。
「対症療法では根本解決にならない」
「構造的な改革が必要だ」
生徒たちと政治家の間で交わされる建設的な議論の中で、真の解決策が見えてくる。