第5話「物価高騰という名の津波」
**【関連資料・出典】**
- TOPPAN LIFE SENSING「特に卵と食用油の値上がりが顕著で、2021年1月と比較して、2024年2月時点で卵は40ポイント以上、食用油は60ポイント以上上昇」
- Yahoo!ニュース「2007/2008年の食料危機では小麦・米・トウモロコシ・大豆の価格がそれまでの最高価格のおよそ3倍に値上がり」
- CNN「ロシア軍のウクライナ侵攻が続く中、軍事侵攻の経済的影響は世界中に及び始めた」
- ジェトロ「2022年12月時点で、パン・穀物の消費者物価指数が前年同月比58.3%上昇、小麦が同80.3%上昇」
- 各国の給食支援政策に関する比較調査
- 日本の食料自給率と輸入依存度に関する農水省データ
金曜日の放課後。3年2組の教室はもはや学年の枠を超え、1・2年生も含めて30名以上の生徒が集まっていた。給食問題への関心は学校全体に波及している。
天野先生が教室に入ると、葵たち4人の机の上には、今までで最も多くの資料が積まれていた。グラフ、新聞記事、インターネットのプリントアウト、そして手書きのメモが山となっている。
「みんな、今日もお疲れ様。今日は『物価高騰』をテーマに話し合うが、君たちの調査の量を見ると、相当深いところまで調べてくれたようだね」
怜が最初に立ち上がった。彼女の前には、色とりどりのグラフが並んでいる。
「先生、私、本当にショックを受けました」
「ショック?」健太が心配そうに尋ねる。
「数字を調べれば調べるほど、私たちの給食がいかに厳しい状況に置かれているかがわかったんです」
怜は最初のグラフを黒板に貼った。「食材価格の推移」と書かれたグラフは、右肩上がりの急激なカーブを描いている。
「これは2020年から現在までの主要食材の価格推移です。特に給食でよく使われる食材を中心に調べました」
「どのくらい上がってるの?」葵が身を乗り出した。
「小麦は約60%上昇、食用油は70%以上、鶏肉は40%、卵は50%近く上昇してます」
教室がざわめいた。
「70%って…」健太が絶句した。「元の値段の1.7倍ってことじゃないか」
「そうです。しかもこれ、全部給食でよく使う食材なんです」
遥が震え声で言った。
「それじゃあ、同じ予算では半分くらいしか買えなくなってるってことですね」
怜が頷いた。
「まさにその通りです。給食費が据え置かれる中で、実質的に予算は半分近くに削減されてるのと同じなんです」
天野先生が深刻な表情で尋ねた。
「怜、この価格上昇の原因については調べたか?」
「はい、それが一番ショックだった部分です」
怜は世界地図を広げた。地図にはロシアとウクライナが赤く塗られている。
「主要な原因は、2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻です」
「戦争?」1年生の生徒が驚いた。
「そうです。ロシアとウクライナは、世界の小麦輸出の約3分の1を担っていたんです。戦争が始まって輸出が止まり、世界中で小麦が不足しました」
健太が手を上げた。
「でも俺たち、パンとかパスタとか普通に食べてるよね?」
「それは日本が高いお金を払って、他の国から買っているからです。でも価格は戦争前の3倍近くになりました」
葵が資料を見ながら言った。
「私も調べたんですけど、食用油も同じ状況ですね」
「そうです。ウクライナはひまわり油の世界最大の輸出国でした。戦争でその生産がストップしたんです」
遥が小さく手を上げた。
「戦争って、こんなに遠くの私たちの給食にまで影響するんですね」
天野先生が頷いた。
「現代は グローバル経済の時代だ。世界のどこかで起きたことが、瞬時に世界中に影響する」
健太が拳を握った。
「戦争のせいで俺たちの給食が少なくなるなんて、理不尽すぎる!」
「健太の気持ちはよくわかる。でも、これが現実なんだ」
葵が別の資料を取り出した。
「でも先生、私が調べたところでは、戦争だけが原因じゃないみたいです」
「どういうこと?」
「円安です」
葵は為替レートのグラフを見せた。
「2020年に1ドル100円台だったのが、2022年から2024年にかけて150円近くまで下がりました」
怜が計算した。
「つまり、同じものを買うのに1.5倍のお金が必要になったということですね」
「そうです。日本は食材の多くを輸入に頼ってるから、円安の影響をもろに受けたんです」
健太が頭を抱えた。
「戦争に円安…俺たちの給食、ダブルパンチじゃないか」
天野先生が黒板に図を描いた。
「実は、トリプルパンチなんだ」
「トリプル?」
「戦争、円安、そしてもう一つ。エネルギー価格の高騰だ」
遥が驚いた。
「エネルギー?ガスとか電気のことですか?」
「そうだ。給食センターでは大量の調理にガスや電気を使う。その価格も2倍近く上がった」
葵が資料を確認した。
「確かに、給食センターの光熱費も調べましたが、2022年から急激に上がってますね」
健太が怒りを込めて言った。
「戦争、円安、エネルギー高騰…全部大人が作った問題じゃないか!なんで俺たちが犠牲にならなきゃいけないんだ!」
教室の空気が重くなった。
天野先生が慎重に言葉を選んだ。
「健太の怒りは理解できる。確かに子どもたちには責任のない問題だ」
「だったら、大人が解決してくださいよ!」
「それが簡単じゃないところが問題なんだ」
怜が冷静に分析した。
「つまり、日本一国では解決できない、世界規模の問題だということですね」
「その通りだ」
遥が不安そうに言った。
「それじゃあ、私たちはただ我慢するしかないんですか?」
天野先生は遥に近づき、優しく言った。
「諦める必要はない。確かに世界的な問題だが、日本政府にできることはまだたくさんある」
「例えば?」葵が尋ねる。
「国が給食予算を補助すればいい。物価上昇分を国が負担すれば、子どもたちの給食は守られる」
健太が手を上げた。
「でも、前に聞いた話だと、国はお金を給食に使いたがらないんでしょう?」
「そこが政治的判断の問題になる」
怜が資料を見ながら言った。
「私、他の国の対応も調べました」
「どんな対応?」
「韓国では、物価高騰を受けて、国が給食予算を大幅に増額したそうです」
「どのくらい?」
「前年度の2倍の予算を確保して、給食の質を維持しました」
葵が驚いた。
「2倍?そんなことができるの?」
「政府が『子どもの食事は国の責任』と明確に位置づけたからです」
健太が悔しそうに言った。
「韓国ができて、なんで日本はできないんだ?」
天野先生が説明した。
「政治の優先順位の問題だ。韓国では教育と子育て支援が政治の最重要課題として位置づけられている」
「日本は違うんですか?」遥が尋ねる。
「残念ながら、まだそこまでの位置づけにはなっていない」
葵が立ち上がった。
「でも先生、おかしくないですか?物価が上がったのは子どもたちのせいじゃないのに、なんで子どもたちだけが我慢しなきゃいけないんですか?」
「おかしいと思う」天野先生がはっきりと答えた。「本来なら、社会全体で子どもたちを守るべきだ」
健太が資料を見ながら言った。
「俺、田中さんにも物価高騰の影響を聞いてみたんです」
「何て言ってた?」
「『今まで作れていた料理が作れなくなった』って言ってました」
健太の声が震えていた。
「例えばハンバーグ。以前は一人150gで作れてたのに、今は100gが精一杯。しかも材料の質も落とさざるを得ない」
「150gから100gって…」怜が計算した。「3分の2になってるじゃないですか」
「そうです。しかも田中さんは『子どもたちに申し訳ない』って泣きながら話してました」
教室が静まり返った。
遥が涙を拭きながら言った。
「調理員さんたちも苦しんでるんですね」
「現場の人たちは板挟みなんです」健太が続けた。「子どもたちにいいものを食べさせたいけど、予算が足りない。でも文句を言われるのは調理員さんたち」
天野先生が深いため息をついた。
「構造的な問題の犠牲者は、いつも現場で働く人たちと、サービスを受ける側の人たちなんだ」
葵が手を上げた。
「先生、私たち調べれば調べるほど、問題が複雑で大きいことがわかってきました」
「そうだね」
「でも、だからといって諦めたくないです」
健太が賛成した。
「そうだ!世界的な問題だからって、俺たちが黙ってる理由にはならない!」
怜が冷静に言った。
「でも、現実的に私たち中学生に何ができるんでしょうか?」
遥が小さく手を上げた。
「私、子ども食堂の代表の方に相談したんです。『物価高騰で困ってる子どもたちのために、中学生に何ができるか』って」
「何て言ってくれた?」
「『まずは現実を知ってもらうこと。そして声を上げること。大人たちの多くは、本当の現状を知らない』って言われました」
天野先生が頷いた。
「その通りだ。問題解決の第一歩は、現状を正しく理解することだ」
葵が決意を込めて言った。
「だったら、私たちの調査結果をもっとたくさんの人に知ってもらいましょう」
「どうやって?」健太が尋ねる。
「来週の保護者会で発表させてもらうんです」
教室がざわめいた。
「保護者会?」怜が驚く。
「そうです。保護者の方々に、物価高騰が給食に与えている影響を知ってもらいたいんです」
健太が手を上げた。
「俺も賛成!親たちは『給食費据え置き』が得だと思ってるけど、実は子どもたちが犠牲になってることを知らないんだ」
遥が不安そうに言った。
「でも、保護者の方々は私たちの話を聞いてくれるでしょうか?」
天野先生が答えた。
「聞いてくれる。君たちが事実に基づいて、冷静に説明すれば必ず伝わる」
葵が資料を整理しながら言った。
「物価高騰の具体的なデータと、それが給食に与えている影響、そして他国との比較。これを分かりやすくまとめてプレゼンしましょう」
怜が賛成した。
「いいアイデアです。感情論ではなく、データで現実を示しましょう」
健太がボキッと拳を鳴らした。
「よし!俺たちで保護者の人たちの意識を変えてやる!」
「健太くん、『変えてやる』じゃなくて、『一緒に考えてもらう』よ」葵が注意した。
「あ、そうだった。一緒に考えてもらおう」
遥が小さく手を上げた。
「私も話します。家庭の立場から、給食がいかに重要かを伝えたいです」
天野先生は生徒たちの成長に感動していた。
「君たちの姿勢は本当に立派だ。きっと保護者の方々にも伝わるはずだ」
「先生」葵が振り返った。「保護者会での発表が成功したら、次は何をすればいいでしょうか?」
「市議会だ」
「市議会?」
「君たちの声を、政治の場に届けるんだ」
健太が興奮した。
「ついに政治家との直接対決か!」
「対決じゃなくて、対話よ健太くん」怜が苦笑いした。
「でも緊張しますね」遥が震え声で言った。
天野先生が励ました。
「大丈夫だ。君たちには真実がある。真実ほど強いものはない」
葵が最後に言った。
「物価高騰という津波が私たちの給食を直撃しました。でも、私たちはその津波に流されません」
「どうして?」
「みんなで手を繋いでいるからです」
健太が拳を上げた。
「そうだ!一人じゃ津波に流されるけど、みんなでいれば立ち向かえる!」
怜が冷静に付け加えた。
「そして、正しい知識と戦略があれば、必ず道は開けます」
遥が小さく、でもはっきりとした声で言った。
「私たちは負けません。未来の子どもたちのためにも」
チャイムが鳴り、学級委員会が終了した。
下駄箱で靴を履きながら、4人は来週の保護者会に向けた準備を話し合った。
「プレゼンの構成はどうする?」葵が尋ねる。
「まず世界情勢から入って、それが日本の給食に与えている影響を説明」怜が提案した。
「具体的なデータを示して、他国との比較も入れる」健太が続けた。
「最後に、解決策の提案」遥が付け加えた。
「完璧ね」葵が微笑んだ。
家路に向かいながら、健太がつぶやいた。
「俺たち、世界の戦争や経済と戦ってるんだな」
「でも、私たちには仲間がいる」葵が答えた。
「そして、正義がある」怜が続けた。
「何より、守りたいものがある」遥が最後に言った。
夜空を見上げながら、4人は決意を新たにした。
物価高騰という名の津波は確かに厳しい現実をもたらした。
戦争、円安、エネルギー危機…世界規模の問題が小さな中学校の給食室にまで影響を与えている。
しかし、だからこそ声を上げる必要があるのだ。
子どもたちに罪はない。
社会全体で子どもたちを守らなければならない。
そのメッセージを、まずは保護者から、そして政治家へと伝えていく。
彼らの挑戦は、単なる給食問題を超えて、社会の価値観そのものを問う運動になろうとしていた。
次の戦いの場は、保護者会。
そこで彼らは、大人たちの意識を変える第一歩を踏み出すことになる。
**※ 次回予告**
第6話「自治体財政の限界」では、なぜ地方自治体が給食予算を増やせないのか、その財政構造の問題を徹底解明。
国からの補助金の実態、地方交付税の仕組み、そして自治体間の格差…
保護者会での発表を前に、生徒たちは地方財政という複雑な世界に足を踏み入れる。
「同じ日本なのに、なぜ自治体によって給食の質がこんなに違うのか?」
その答えを探る中で、彼らは日本の地方自治制度の根本的な問題に気づいていく。




