第五話 感染症
2019年4月。
ぞわっと光の首筋が粟立った。
急いで黒檀の文机に向かい、筆を持った。
―――2019年冬、感染症が世界中で蔓延する。分断される。人は人の口を見なくなる―――
久しぶりに来た大きな預言に、光は震えた。すぐにLINEグループで竜也、麻里、理枝に知らせた。
麻里は韓国に移住して女性パートナーと同棲し、フリーランスの動画編集の仕事をしており、竜也は東京都内でSEとして働いている。
『感染症………分断。これは私たち秘密結社零では防げない。私たち組織はもう三人だよ』
麻里からの返答だった。
悔しいが、光もそう思った。
かつては日本各地で活躍していた、悪い預言を無にする秘密結社零も、今ではたった四人。伝手もなくなった。
『これもまた災害と同じく、避けられない。ただ、これからどうなるか気をつける程度のことしかできないな』
竜也の返信は現実的だった。
『感染症、怖いです。でもできることはします』
理枝はそう送ってきて、その後に号泣する猫のスタンプをつけた。
その一ヶ月後、光はまた全身に震えを感じた。
両親が立て続けに亡くなり、葬儀や慣れない親戚付き合いに追われた二年間。疲労の蓄積で何かの病気かと疑った。
文机に向かい筆を取ると、さらさらと動き出した。
―――2019年、秋。慰霊される。紫の二つの目がこの世を見る。やがて出会う。その時は冬―――
慰霊。紫色の瞳。なんのことかさっぱりわからなかった。
この預言も一応LINEに送ったが、反応は「これなんだ?」というものだった。
2019年12月、中国・武漢市で原因不明の肺炎が発生したというニュースを見て、光は「これが預言の感染症だ」と悟った。
『預言の通りになった。しばらくは日本に帰れなさそうだ』
麻里から連絡が来た。
『感染速度が早いようだ。マスクと手洗いを忘れるな』
竜也はこういう時も実践的な情報をくれるので助かる。
『わかりました、ちゃんとマスク手洗いします』
理枝は敬礼している猫のスタンプを添えて返信してきた。
――やっぱり預言できても、防げないなら意味がない。
地震で死亡した二人、絶望して脱退した二人。構成員を増やしすぎないことが鉄則だったが、秘密結社零は光の代で絶えかけていた。
両親も亡くなり、この半分廃れた神社で、三原則世界という人工世界を管理しながらどうやって生きていけばいいのか。
預言者に生まれてきたくなかった。
がらんと広い屋敷で、光は膝を抱えた。
気がつけば自分も三十四歳、独身。
結婚なんて考えられない。友達も麻里と竜也しかいない。
玲神社の氏子も、光の人付き合いの悪さでどんどん減っていった。
自分が情けなくて、背中を丸めて神社を掃除する。
「こんにちは。今日も三原則世界、観ていいですか? お水やっときます」
ランドセルを背負った輝がやってきて言った。
彼は八歳にしてはしっかり者で、三原則世界に強い興味を持ち、水槽の掃除もしてくれる。
「あ、うん。いつもありがとう」
「いいえ」
輝は靴を脱いでちゃんと揃え、じょうろを持って社に入っていった。
あの子のように、見た目で人を惹きつけて、言動もきちんとしている。そういう「神格化された者」が預言者に選ばれるべきだった。
自分のような平均よりやや下で、要領の悪い者がこの世の神託を受けるとは。
三原則世界はアップデートされ、正常に動作しているのに、現実世界はバグばかりだ。
その時、マスクをつけた青年とモッズコートの青年、そして若い女性の二人組が鳥居をくぐって入ってきた。初めて見る参拝者たち。光は社の端に移動する。
「あのう、すみません。この神社の方ですか?」
怪訝そうに参拝者の青年が声をかけてきた。
光は羽織袴ではなく黒のジャージ姿。神主にも巫女にも見えないだろう。
「あ、はい。一応…………神主ですが」
光は目を泳がせて答える。
「どうも、ボクは大野鉄平と申します。民俗学者です。この神社って、神様を祀ってないですよね?」
つり目の青年が、目を細めて言う。
「え、あの。それは……どういったことでしょうか」
光は戸惑った。
「単刀直入に申し上げます。私たちは秘密結社零に召喚されました。あなたが預言された“2019年、秋。慰霊される。紫の二つの目がこの世を見る。やがて出会う。その時は冬”――それは、私たちのことです」
女性が話した。
大きな猫目で小顔、ショートボブがよく似合う。右目にレザーの眼帯をつけたミステリアスな美人だ。
「申し遅れました。私が“紫の目の者”です。岡崎真琴と申します」
真琴が眼帯を外すと、その目は確かに紫色だった。
三原則世界では特別な力を持つ魔術師が持つ、あの目だ。
「…………預言された者が喚ばれて来る……という記録はありますが、実際に起きたのは初めてです」
光はうろたえた。
「この秋、私たちは忌み地の霊を鎮めました。慰霊に関わった四人のうち、今日は都合で二人だけ来ましたが、夢で“この神社に行け”と宣告されたのです」
真琴が丁寧に話す。
「そして、僕が秘密結社零について調査し、この本部にたどり着きました。秘密結社に関する情報ルートは消しておいたので、極秘は守られています」
大野鉄平が目で笑った。
「お姉さん、お兄さん。こっち来て」
社の扉が開いて、輝が手招きした。
「こんにちは。ここがどうしたん? うわ、なんかすごいなぁ」
鉄平が社の中に入り、真琴もぺこりと頭を下げて続いた。
「これはね、みんなで作った世界なんだ。僕のおかんはこの世界から来た。三原則世界っていうねん」
輝が水槽とパソコンを指さして説明する。
光も社の中に入って、鉄平と真琴に座布団を渡した。
「これが、まあ、実際の……うちが祀ってるものです」
光はそう言った。氏子には知らされていないが。
「すごいですね。これが秘密結社零が今、守っているもの」
真琴がディスプレイの中を見て言う。
「お姉さんの目と、同じ目の人がこの中にいるよ。紫色の目」
輝が微笑んで言った。
「そうなのね。何か繋がりがあるかも。私はこの紫の目で、瞬きだけで霊を祓えます。もう一人、竹丸雅也という男も同じ力を得ました。それは私と竹丸が、怪異に“目”を捧げたからです」
真琴が説明する。
「瞬きだけで、それはすごい」
――紫の瞳が出会う時、という預言は、良い預言だったのだ。
「輝ー、迎えに来たよー」
ちょうどそこに、理枝がやってきた。
光は二人について説明すると、理枝は喜んだ。
「よっしゃ、これで秘密結社零のメンバーが増えるねんな! 若者が来てくれて頼もしいなぁ」
理枝は笑った。
麻里と竜也にも相談し、鉄平と真琴の加入は決定した。
鉄平は大学生、真琴はイラストレーター兼霊媒師だ。
その後、同じ夢を見たという神社の神主・物部士郎と、大学を休学して霊媒師になるための修行中という竹丸雅也が神社に来た。
物部士郎は、清らかな美男子だった。
「初めまして、物部士郎と申します。あなたのお力になることを望んでいます。どうか、秘密結社零に入れてください」
士郎が丁重に言った。
「俺はまだまだ実力不足ですが、人類の滅亡をさせたくないです。お願いします」
身長が高く、凛々しい顔をした竹丸が頭を下げた。
二人の加入は、すでに麻里たちとも相談済みだった。
秘密結社零のメンバーには「印鑑」が渡される。瑪瑙に「零」の文字が彫られた印で、これを持つ者だけが開ける扉が地下にある。
光も両親から、地下は一度しか見せてもらったことがない。
こうして秘密結社零のメンバーは六人になり、解体を間逃れた。