第十一話 元魔王と天使の再会
午後三時、天気予報が外れて晴天がいきなり曇り空となった。
あべのハルカスとJR大阪駅構内を繋ぐ歩道橋から、女子高生が飛び降りた。地上に叩きつけられた体の上をトラックが通過し、少女の体は砕けた。
それを見た青年が、ためらいなく飛び降りる。次々と、老人、中年女性、少年が歩道橋から飛び降りた。
鉄平は血の臭いで気分が悪くなった。
道路からは車がぶつかる衝突音がした。
叫び声と怒号が飛び交う中、淡々と飲み込まれるように目の前で人が落ちていく。
鉄平には、見ることしかできなかった。近づけば自分も巻き込まれる。
真琴たちのような霊感はないが、嫌な気配を感じることはできる。
そして、この状況を記録しておくことだ。
目を背けながらも、GoProで歩道橋を撮影する。
酷い頭痛と耳鳴りがして、鉄平はビルの壁にもたれかかった。
歩道橋が振動し、悲鳴が上がった。車が歩道橋の柱に突っ込んだ。
そのあと、タイヤがコンクリートで引き裂かれるような音と衝撃音が続いた。
飛び降り自殺、多発事故。
世界の終わりの序章だ。
あべのハルカス最上階の真琴、竹丸。
虎猫本舗の屋上で祭壇を構えた士郎、そして上空で戦う理枝を信じる。
虎猫本舗のビル屋上。降り出した雨が、祭壇の榊を濡らした。
白い布を張った簡素な祭壇は、左右に榊、中央に丸鏡、その前に生米と酒が供えられている。
士郎は竹の木に白く細い紙を幾重にも付けた〈おおぬさ〉――大幣を両手で持ち、正面に構える。
その反対側には、同じく大幣を手にした羽織袴姿の光がいる。
上空は闇となった。
黒い蜘蛛の足が地上に突き立てられ、絶望が広がる。
これは怪異ではない。――災害だ。
ビルから見えた血飛沫、鳴り止まないサイレン、人々が絶望に飲み込まれている。
光は思う。預言は、当たった。
ならば、立ち向かうしかない。
士郎と光は向かい合い、大幣を揺らす。
「はらいたまえ、きよめたまえ、
あらぶるものをけがれはらえよ、
ここにいますまがつひをしずめたまえと、
かしこみかしこみもうす」
二人は声を合わせて祝詞を読んだ。
激しい雨が降り、大幣が濡れて振ることができなくなっても、二人はだんだんと祝詞の声を高めていった。
あべのハルカス上空。
真琴と竹丸は展望台の端から、蜘蛛を見ていた。
紫色の目で、同時に息を合わせて瞬きをする。
真琴は黒のワンピースにグレーのカーディガン。
竹丸はグレーのセットアップにロンT。
二人は、周囲からデート中のカップルに見せるよう偽装していた。
真琴の手を、竹丸の大きなゴツゴツした手が包む。
二人が手を繋ぎ、同時に紫の目を使うと威力は増す。
「ダメだ。届いてる気がしない……直接見ないとダメなんじゃ」
真琴はスコープで、蜘蛛と戦っている理枝を見た。
鷹の羽根が、抜け落ちていくのが見える。
「もう少し頑張ってみよう。距離的にはここが一番近い」
竹丸は汗をハンカチでぬぐい、ジャケットを脱いだ。
筋肉の盛り上がったその腕を見て、真琴は自分の細い腕と見比べる。
「ねぇ、なんかすごい事件あったって。交通規制かかったらしい」
「ほんまに? なんやろ」
客の会話を耳にして、真琴はさっき鉄平から送られてきた歩道橋から飛び降りる人々の映像を思い出す。
蜘蛛の足は、下に向かっている。
「竹丸、ここで人をできるだけ止めよう。上に、人は上に避難させないと。電気を、止める。ここ一帯を停電させる。そうすれば人は動かない。あんたは混乱した人たちに、落ち着くよう呼びかけて」
真琴の言葉に、竹丸は目を見開いた。
「でも、電気変動は真琴さんが痛い思いをするだろ」
「いいの。黙って私の言うことを聞きなさい」
真琴がきつく言う。竹丸が眉間に皺を寄せて頷き、インフォメーションへ向かう。
その隙に真琴は鞄からスマホの充電ケーブルとソケットを出し、受付の足元にあったコンセントに差し込み、ケーブルの先を自分の紫色の目に当てる。
光が消えた。
「落雷による停電です! みなさん、その場から動かないでください!」
竹丸が叫ぶ。
「真琴さん、俺、下の階に行って避難を呼びかけてくるから!」
竹丸は真琴を抱き上げてソファに寝かせた。悲しそうな顔で真琴にジャケットをかけ、走っていく。
真琴は息を整え、目を閉じる。激しい痛みで指先が痙攣した。竹丸のジャケットの匂いが、落ち着く。
竹丸はスマホをかざして各階を巡り、「ここにじっとしていてください」と避難を呼びかけた。
ガラスのエレベーターが止まっている。
「落雷による停電です。落ち着いてください」
竹丸はスマホに文字を打ち込み、ガラス越しに中の人へ見せた。
真琴の紫の目に宿った力――電気干渉。
ソケットに目を当てることで、三十分間その場の電気を消すことができる。
彼女はそれを偶然、充電ケーブルが目に当たったことで発見した。
だがその代償として、激しい通電の痛みと痺れに苦しめられる。
いつだって、誰かを犠牲にしないと世界は守れないのか。
そんなの、おかしいだろう。
竹丸は何十階と続く階段を駆け降り、歩道橋に向かった。
白い歩道橋の柱が、血で赤く染まっている。
「鉄平、大丈夫か」
ハルカスの壁にもたれかかっている鉄平に、竹丸は声をかけた。
ハルカスを停電させて人の動きを止めたことを伝えると、鉄平はサムズアップして「ええ判断」と答えた。
激しい雨が血を流し、橋から何メートルも先まで赤く染めている。
歩道橋の中央に、繊毛の生えた蜘蛛の黒い足があった。
竹丸はその前に立ち、紫の目で睨み、念仏を唱えて両手で叩いた。
足が消えて、飛び降りようとしていた人をつかんで止めた。
棒立ちになっていた人が正気を取り戻し、あたりを見て叫び声をあげる。
「次、次はどこにいる」
竹丸は走った。
理枝は血を吐きながらも、翼を閉じなかった。
蜘蛛の足を体で受けた。黒い足が引き抜かれるたび、理枝の口から血が流れる。
理枝は、ログだった時代のことを思い出す。
三原則世界に比べて、こっち――現実世界は地獄だ。
人の強い念。それが形となった霊魂。
人は感情を持つ生き物なのに、他者を貶め、傷つけ、殺す。
地獄をやめようとしない。
だから、嫌だった。
でも、輝という存在を生み出してくれた「田中理枝」という少女が生きた世界を――信じたかった。
ログは、ハルカスの屋上で倒れた。
――あきら、リンゴの皮が好きなんて変わってるなぁ。
ほら、あーん。おいしいやろ、これ、いつもより高いやつやで。
ほら、実も食べや――
ライモは、すべてを思い出した。
リンゴの皮しか食べさせてもらえなかったんじゃない。
食べさせてくれたのだ。
「アイラ、僕は行くよ。お母さんを助けたい」
ライモは、女王であり妻でもあるアイラに言った。
「うん」
アイラはうなずき、ライモを抱きしめてキスをした。
「この世界の秘密がわかったなら、外の世界を守らないといけない。
私たちのためにも戦ってきて、ライモ――いいえ、“あきら”」
アイラが言った。
ライモは彼女の手を強く握りしめ、手の甲にキスをした。
ライモは白いシャツと革のベストに着替え、白い剣を手に取った。
「では、行こう」
オーが言った。
「わかった。この手を引っ張って」
ライモが差し出した手をオーが握ると、世界は暗転した。
目を開けると、雨の中にいた。高い場所だ。見上げた灰色の空が近い。
鷹の羽根が、足元に落ちていた。
その先に、鷹の羽根を広げた小柄な金髪の女性がいる。
裸足の足から、血が滴っている。
黒い巨大な蜘蛛がいる。
ライモ――いや、輝は走った。
「おかん、助けにきたで!」
輝は叫び、天使の白い翼を背中から広げて、飛んだ。
「めっちゃボロボロやん、おかん。僕やで、息子の輝」
輝は理枝に微笑みかけた。
小さい顔に丸い目――おかんは何も変わっていない。
一方、輝は最後に会った十二歳の頃から、すっかり成長してしまっていた。
「輝……? 本当に、輝なん?」
理枝が輝の肩に手を置き、驚いた顔で言う。
「そうやで。あとは僕とオーで、あいつ倒すから。
おかんは、もう休んどき」
輝は理枝の前に立ち、白い剣を天に掲げた。
雨が氷の刃となって蜘蛛に突き刺さる。
オーが蜘蛛の体の上に乗り、中心を叩く。
蜘蛛の体が崩れ始める。
ライモは剣を構え、オーが蹴飛ばした蜘蛛を切り裂いた。
空は突然、青くなった。
何事もなかったかのように晴天が広がり、白い雲が流れる。
太陽が、まぶしい。
「おかん、よう頑張ったな」
ライモは剣を鞘に収め、ビルの屋上に寝転がっている母の手を握り、腹の血を止めた。
「輝……ありがとう、ありがとう。おかん一人やったら、アカンかったわ……」
「せやろ。僕はもう、龍倒して、女王様と結婚したんやで。
今日からは、おかんたちの味方や」
「う、うん。うん……輝、こっちの時間はまだ、あれから三ヶ月や。
三ヶ月でそんな大きくなるやなんて……」
理枝は翼を消して、口元の血を袖で拭った。
「俺はこの世界に馴染む服を買ってくる。お母様も着替えが必要だろう。
それと剣は魔術でなんとか消してくれ、銃刀法違反だ」
オーが言った。
「僕の服はアディダスのジャージ買ってきて」
輝はオーに言う。
「うちの服はなんでもええで」
理枝は起き上がって言った。
「ど、どえらい美形に育ったな……いや、なんか息子やのに照れるわ。
背も、あんた高くなって、足長いなぁ」
理枝は笑って言い、輝の容貌を見る。
水色の大きな瞳を囲う長い睫毛。
下まぶたはふっくらしていて、鼻先が少し尖った形の良い三角の鼻。
口角の上がった桃色の唇。
きめ細やかな白い肌は、雨で少し濡れて艶がある。
「そっか、三ヶ月しか経ってないんだ。それはびっくりするね」
輝が笑うと、十二歳の面影が見えた。
「会いたかった。迎えに行かれへんで、ごめんなぁ。愛してるで、輝」
理枝は、すっかり自分より大きくなった輝に抱きついた。
「ええよ。おかん、僕も愛してるで。……はは、こんなに小さくなって」
輝が理枝のつむじをつつく。
「小さくなってへんわ。あんたが大きくなってん」
理枝は笑いながら、輝にしがみついた。