次元A:その男は友人を救うためブラックロータスを差し出した。
意外とあっけなく訪れた世界の滅亡を、オレはなんとか生き延びた。
たった数年で荒廃しきり、人影はほとんど絶えてしまった街中で、オレは物資を集積し、家を要塞化し、サバイバル技術を磨き、どうにか命を永らえさせている。
だがある日、街の物資あさりから帰ってきてみると、家が荒らされていた。
ため込んだ食料に水、医薬品、衣料、工具や武器の類はあらかた盗まれてしまった。残っているのは、滅亡した世界の荒廃した空気の中じゃどんな輝きも放たない、ただのガラクタだけ。
オレはしばし憤慨し、絶望し、現実を拒絶したが――やがて大きなため息と共に受け入れた。ガラクタのいくつかを持ち出し、新たな家に引っ越し、また一からやり直すことにする。もう死んじまうのでもいいかもな、とは思ったけれど……国も社会も世間も消えてしまった今の世界で、出会った不幸が空き巣なら、むしろ幸運だったと言うべきだ。いつだったかは酷かった。スーパーの倉庫に行ったら、人の死体が数人分混ざっていた。
結局オレはその日、空きっ腹を抱えながら寝る。
やっぱり死んじまうべきだったかもしれないな。
次の日からまた、物資あさりにでかける。
手をつけていなかったマンションの部屋を一室一室丁寧にあさっていけば、なにかしら物資は手に入るだろう。もう強盗に見つかって殺されてもどうでもよかったから、それから数日、ごろごろと音をさせながらリヤカーを引きずりまわし、しらみつぶしに近隣をあさった。
米を一粒ずつ拾っておにぎりを作るような物資回収を続けると、なんとか、2週間分程度の食料は確保できた。引っ越したばかりでまだ寒々しい家の食料庫に積み上げた水と食料を見てオレは、息を漏らす。
安堵と、憂鬱。
これだけあれば数日間の旅に出て、武器や工具を探しに行けるだろう。冬の内に農業ができる場所を探すのもいいかもしれない。これからはきっと、都市の残骸をすすって暮らすのは難しくなる。自然の中でサバイバルを始めるべき時だ。
やっぱり、死んじまうべきだったんだろうな。
こんな世界で生き残って、どうするってんだ?
だがそこで異常なことが起きた。
こん、こん。
誰かがドアを、ノックしている。
オレは身を固くして息を潜める。警察も軍隊もなにもかも消えてしまったこの世界で、誰かの存在を察知したらそうするのが一番だと、身に染みている。きっと物資回収が目について尾行されたんだ。でも、じゃあ、なんで押し入らずにノックしてるんだ?
再び、遠慮がちなノックの音。
背中に冷たい、嫌な汗がじっとり滲む。オレの視線は無意識の内、新たな家の中、武器を求めさまよう。ゴルフクラブと包丁程度しかなかったが、なにもないよりはマシだろう。クラブを手に、包丁を腰のホルスターに、足音を立てず玄関へ。
ノックの音、3度目。
「ごめん、ください」
そして、声。遠慮がちな、消え入りそうな、男の声。それを聞いてオレの警戒心が少し緩んだ。いかにも気の弱そうな声だったが、すぐに気を取り直し、改めて警戒する。
「すいません」
もう一度声がする。ひっそりと静まりかえった無音の街中に、男の声がやけに大きく響くのがわかる。声を潜めるのが癖になってしまっているオレは、それを聞いているだけで少し、焦ってくる。
声を出せば、誰かに見つかる。
誰かに見つかれば、ロクなことは起きない。
崩壊した世界はそういう場所だ。
ドア越しに大声を出さないよう告げると、男はびくんっ、体を震わせた。のぞき穴から見る限り、危険な印象はない。今の世の中じゃたいていの男はそうだが、痩せて、ヒゲは伸び放題、日に焼け、路上生活が体に染みついた人間特有の空気を持っていた。要するに、まともな人間なら近づかない空気。
だが、オレはそんな男に親近感を覚えた。
――この男は奪う側ではなく、奪われてきた側だ――
なぜか、そう思った。メガネをセロテープで補修していたからかもしれない。けれどそんな眼鏡越しにも、やせ細って、落ちくぼんだ目の中の瞳が、どうしてか、綺麗に見える。暖炉の熾火のような、ほのかで、しかし暖かな光に満ちていると思えた。
「取引を、したいんです」
男は小声で言った。ふざけているとも、狂っているとも思えない。背中にはふくれたリュックサックを背負っているし、ベルトにはなんの武器もない。どうやら安全そうだ――と断定するにはまだ早かったけれど――オレはちらり、家の中に視線をやる。水と食料は手に入ったが、それ以外の生活必需品が、圧倒的に足りない。
オレは意を決し、ドアチェーンはかけたまま、鍵を外し、そっと、わずかにドアを開ける。その瞬間、向こうの男がほっと一息をついたのがわかる。男も緊張しているらしい。それでますますオレの警戒は緩み――自分が緩んでいると気付くたび、気を取り直して油断ない視線をあたりに配る。相変わらず街は死にきっている。オレみたいに、オレ以上に。
「ああ……良かった……実は、その、食料と水が、欲しくて……1週間分ぐらい……」
男は旅の途中で、生存者を見つけては物資を交換しながらここまでやって来たという。だがそんなことはどうでもいい。
「……なにが出せる?」
オレとその男はしばらく、チェーンのかかったドア越しに交渉した。オレから差し出せるのは水と食料、求めているのは工具や、武器になるもの、医療品など。だが男がリュックから出してくるのは、オレがすでに近隣をあさりつくしていたからか、すぐに手に入るガラクタばかりだった。ポータブルCDプレイヤーとCDのセットには心惹かれたが、音楽の趣味はまったく合わなかった。誰がこの滅んだ世界でアイドルのエレクトロポップを聴きたがるんだ?
どうやら交渉は空振りに終わりそうだ……オレがそう思い始めたころ、男が急に黙り込んだ。男もまた、今回は徒労だったと思ったのだろうか。
しかし男の様子は、どうもおかしかった。
オレの顔をしげしげと見つめ、何かを言いだしあぐねているような、そんな風に見える。ひょっとしたら、どこかで会ったことでもあったのだろうか。だが元々交友関係が広くないオレは、数少ない友人たちや家族がすでに、もうこの世界にいないことを知っているし――
「あ」
男が間抜けな声を漏らし、口をOの字にした。
その瞬間、オレもそれを思い出した。
オレとこの男は、以前に、会ったことがある。
学校の友人でも職場の知り合いでも、近所の人間でも家族の知り合いでもないが――
「晴れる屋で……会ったこと、あります……よね……?」
男が口にしたのは、大手カードゲームショップの名前。世界が崩壊してからついぞ耳にしなかったその言葉に、オレの脳がうずく。途端に記憶があふれ出す。
またあの臭いに体を包まれている気分になる。
平日の大会か統率者のイベントか、はたまた、隣でストレージをあさっていただけだったか。オレの記憶の中に、たしかに、この男の姿がある。
今とはまるで違う、チェックのシャツにチノパン。
今と同じように、セロテープで補修したメガネ。
今と同じだけれど、あの頃は違うものが詰まっていた黒いリュック。
ロクに会話を交わしたことも、視線が合っても会釈さえしたことはなかったけれど、たしかに、お互いがお互いを認識していた。この店のこの時間でよく見る顔だな、とオレは思い……きっと向こうも、同じことを思っていたはずだ。
だが、それを思い出しても会話は弾まなかった。
もう世界のどこからもシャカパチは聞こえてこない。
崩壊後の世界で数年過ごしたオレたちは、それを知っている。
やがて男は少しため息をつき、俯いた。再び顔をあげた時、顔には決心のようなものが見て取れた。やつはおもむろに、着ていたジャンパーの内ポケットから、デッキケースを取り出す。オレが、バンデット・キースかよ、と言う間もなく、ボロボロで、傷だらけの、黒いデッキケースを開ける。そして指一本分の隙間が開いているそこから、1枚のハードケースを取り出し、オレに見せた。
その中にオレは、今は絶対に見たくない、と思っていたカードを見る。
《Black Lotus》。
明らかにボロボロで、ハードケース越しでさえ、こすれた傷がいくつもついているのがわかって、わずかだが水濡れ跡さえ見える。
だが、黒枠。
角は、丸い。
「これと、1週間分の食料を、トレードしてもらえませんか」
オレは自分がどうすべきか、どうしたいと思っているのか、わからないまま、酔っ払ったような気分にさせられ、ドアチェーンを外してしまう。オレはロータスを殊更にありがたがるような初心者じゃない。だが、ロータスなんてくだらない、と吐き捨てる程に冷めてはいない。その魔力にはあらがえない。あらがいたくもない。
※※※※※※※※※※※※
寒々しいリビングに男を上げ、話を聞いた。
男はここから特急電車で1時間ほどの都市を目指し、歩いて旅をしているところだという。噓か本当かはわからなかったが、ここからは特急電車で2時間ほどかかる都市から、数日かけて歩いて来たらしい。電車どころか車さえ死に絶えている世界でそれが意味するのは、男が旅人だということで、つまりそれは、かなり頭のおかしな人間、ってことだ。生存さえ危うい世界で旅なんて道楽を続けるのは狂人か、元の場所にいられなくなってしまった悪党だ。
どうしてわざわざそんなことをしているんだ? と尋ねると、男は躊躇いがちに語り始めた。
とある街でカルト宗教のようなものが流行し、そこから逃げてきたという女がいた。
崩壊した世界じゃ、よくある話だ。なにがしかの組織が、どこそこの街を牛耳って、そこではこんなにも酷いことが行われてる――なんてのは。人間競馬をやってるとかいう元反社たち、異教徒を捕まえ火刑に処して回ってるって話のキリスト教系団体、あげくの果てには日本人に見えないヤツを即射殺する自称防衛軍もどこかにいるらしい。
……それで、カルト団体から逃げてきた女が言うには……人肉食を肯定するその宗教は、近隣の無信心な輩を手当たり次第に捉えては檻に入れ、2ヶ月ごとの祝祭の日にシメて、大鍋で煮込んでみんなで仲良く食べるそうだ。そこから逃れてきた女は、同じように捕まっていた人間が幾人もいると言い……そして、そこに、男の友達がいたのだとか。
人違いじゃないのか、とオレは言った。こんな世界じゃ、死んでいる人間を生きていると思いこまなきゃやってられないこともある。それに捕らわれすぎて自分が死ぬのも珍しくはないが、それはきっと、だいぶ幸せな死に方だろう。
だが男は首を横に振った。
人食いカルトの食材として捕らえられていた男の中に、変わったTシャツを着た1人がいたのだという。なんでもそのTシャツは――
「赤くて、右上に、なんか火の玉のマークと数字、真ん中になんか、絵画風の洪水のイラストがあって、その下に、英語でなんか文章があって、ちょっと格好良くて気になったから、そのTシャツなんのやつなんですか、って聞いたら、男はニヤリと笑って――」
《ジョークルホープス/Jokulhaups》。
それだけ答えたのだという。
「…………そいつの口癖だったんです。これは《ジョークルホープス/Jokulhaups》、世界で一番カッコいいカードだ、だから俺はこのTシャツを作ったんだ、って……」
それだけ言うと、男は黙り込んでしまった。
オレはどうしたらいいかわからなくなって、机の上を見た。オレと男の間に置かれた《Black Lotus》を見た。おそらくは、αのロータスを。
世界が崩壊しても、オレは、そこまで不満じゃなかった。
元々人付き合いが苦手で、そこから逃げ回って、大したことない仕事を、この仕事マジで大したことないな、と思いながらこなすだけの日々だった。そんな大したことない仕事でさえ満足にできない自分が大嫌いだった。恋人なんていたこともないし、カード仲間以外に友達もいない。ただ休日や仕事明けにMTGをやって、それが楽しいだけで……生きている時間のだいたいは灰色で、それで……それで……?
《Black Lotus》。
オレはもう一度ロータスを見つめる。穴が開くほど見つめる。実際に穴が開いてしまえばもう少し、ラクな気分になれるだろう、なんて思う。
手元に電子秤はないし、ブラックライトもないし、懐中電灯さえあちこちの家を探さなければ見つからないだろうし、ルーペも同じだ。これが偽物でもオレにはわからないし、今ロータスをサクって3マナ出したところで、どんな人間でも車のほうが価値がある、と言うだろう。オレだってそう思う。これがロータスじゃなくて、銃やバールなんかの武器、抗生物質や痛み止めなんかの医療品なんかだったら、どれだけ良かったか。
けれど、だからこそオレは、このロータスが本物だとわかった。
だから、だろうか。
見ているとだんだん、腹が立ってきた。
男にも、ロータスにも、オレ自身にも。
オレは男に少し待っててくれと言って、食料庫に行った。元の家から持ち込んだガラクタの山をがしゃがしゃとあさり、それを見つけてリビングに戻る。ぼろぼろのロータスに負けず劣らずぼろぼろのそれを横にたたきつけ、呆然としている男を見つめ、言った。
「これは《無限の日時計/Sundial of the Infinite》。世界一いいカードだ」
※※※※※※※※※※※※
「少し前、空き巣に入られて、貯めてた物資を全部盗まれた。けど、空き巣野郎はこれを盗みゃしなかった。バカな野郎だよ、このカードの価値がわからないなんて」
「へ……は……あ……は……?」
「ああ、そうだ。これはニアミントで700円とか800円とかそんなだろう。絵違いも再録もねえ、リストの埋め草、大した人気のない、フォイルでようやく1000円ぐらいのカードだ……そんなカードだった。ズタボロでも500万しそうなαのロータスとは比べものにならねえ。でも値段なんて知ったこっちゃねえんだ。そんなのはショップが考えりゃいいことだ。オレには関係ねえことだ。世界が滅んでる今そんなもん気にしてんのはアホだけだ。滅ぶ前だってそうだ。だから、これは世界一いいカードなんだ。オレにとってこれが世界一なんだ。これ以外にないんだ。ロータスなんか目じゃねえんだ。わかるか。ターンを終了させるんだ、自分のターンに限って、そんなカード他にねえ。いや少しはあるが、置物じゃこいつだけだ。こいつがありゃ、次の終了ステップの開始時、なんて文言が全部吹っ飛ばせるんだ、フェイジだって踏み倒せるんだ。わかるだろ、それがどういうことか、世界が終わっちまってもデッキケース持ち歩いてるあんたには、それがわかるだろ」
「……………………」
「…………あんたが、あんたが本当に、ロータスを世界一だって思ってんなら、いい。ちょっとは水も食料もあるから、1週間分ぐらい、交換してやる。|どうせ本物なんだろ、それ《・・・・・・・・・・・・》。でも、なあ、あんた。あんた本当に、ロータスが世界一だって思ってんのか、あんたには本当に、ロータスしかねえのか。あんたのマジックは、ロータスだけだったのか」
「……あ…………ぃ……」
「デッキケース、中に入ってたの、全部緩衝材だったのか」
「…………」
「…………んだよ、ったく……」
「あ……」
「ん」
「…………な…………《波使い/Master of Waves》……」
「……青単信心か」
「せか……世界で……世界で一番…………美しい、デッキだ……はじ……初めて、3-0した、ぼ、僕、の…………」
「今持ってんのか」
「あ、う、は……はい……」
「じゃ…………《無限の日時計/Sundial of the Infinite》と《波使い/Master of Waves》、トレードしようぜ」
「へ……?」
「オレたちはもうすっかり忘れちまってるが、これは、マジックは……トレーディング、カードゲームだったんだ。ハハハ、晴れる屋のプレイスペースじゃないんだ、トレードしてもいいだろ。《波使い/Master of Waves》の方が高いだろうけど、そこは食料と水を足してやる」
「ぁ……っ……ぅ……」
「…………オイ、なんで泣いてんだ、オレがシャクってるみてえじゃねえかよ……」
「はい……っ……はい…………っ」
「ったく……不満だったら、いつでも返してやるから、泣くなよ」
※※※※※※※※※※※※
男のリュックに1週間分の食料と水を詰め、足りない分はボストンバッグに入れ持たせてやって、オレは男を見送った。トレードしたカードは、互いの胸ポケットにしまって。
「襲われんなよ、たぶんまだ、泥棒がうろついてやがるから」
「は、はい、あの、本当に、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げられると、居心地が悪くなってくる。オレは唇を尖らせ問いかける。
「しかし……そんなに助ける価値のあるヤツかね、《ジョークルホープス/Jokulhaups》喜々として撃ってくるアホだろ」
そう言うと、男は笑いをこぼした。
「普段は、バーン使いなんですけどね、そいつ」
「赤単野郎は全員煮て食われちまえばいいのに」
「あはは、お嫌いなんですか?」
「コントロール以上に、オレみたいなジョニーの天敵さ」
「僕みたいな青使いにもですよ……でも……良いやつなんです、ホントに。僕が何千回とカウンターしても、ちっとも腐らない。赤単バーン握って平日大会で、3連続でソウルシスターズ系相手でも、けらけら笑って、今なら逆に!? とか言って、オリパ引きに行くんです、それで爆死しても、帰り道、なあ今月の対戦会、モダンブロールってどう? とか言ってくる」
「それは………………良いやつだな。バカたいに……良いやつだ」
「……はい」
そこでしばらく沈黙があって、オレたちは俯いていた。
けれど、やがて、男は顔を上げ、オレに別れの言葉を言うと、歩き出した。
オレはその背中を見送って、見送って……
叫んだ。
「なあ青単野郎! そいつ助けたら2人でウチ来い! 3人ならギリ、統率者できるだろ!」
男は振り返った時、泣き笑いのような顔をしていた。そして叫んだ。
「……《停滞/Stasis》! ……置いても怒りません!?」
オレは、叫び返した。
「だからオマエらは嫌われるんだ! じゃあオレは《沸騰/Boil》撃つからな! あと、じゃあ、平日大会もだ! 3人ならギリ開催だろ! モダンと、パイオニア!」
男はそれを聞くと、ぱちん、と手で顔を覆って、それからオレに手を振り、歩き出した。
オレはその背中を見えなくなるまで見送って、見送って――
工具より、武器より、本当に探すべきもの、本当にあさるべき場所をようやく、崩壊から数年経ってようやく、思いついて、笑って。
青単野郎と、赤単野郎が、オレの家に来るところを想像して。
それでオレたちは、生き残るために組織を立ち上げ――
イゼット団と名前をつける。
イゼット団の最初の仕事は……そうだな、新弾の製作。ラヴニカの……そうだ、ラヴニカが今みたいにポストアポカリプスになったことにして、3セット制にして、ラヴニカの黙示録、ラヴニカの奇跡、ラヴニカの復興…………
〈了〉