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第九十八話 銀の樹は揺らがない

執政…公都の最高責任者

 迎賓館の大広間には、朝の空気と人々の気配が入り交じっていた。天窓から降る光が、床に敷かれた石の模様を照らしている。

 広げた扇子の裏で、オフィーリアは小さく息を吐いた。交歓会と呼ばれるこの集まりは、政策や事業に関する意見を交わし合うことを目的として、年に数回催されている。

 はさりげなく会場内を見回した。華やかな雰囲気こそ夜会と似ていても、流れる空気の質はどこか違う。

 交わされる会話は、政策や交易の動向にまつわるものが多い。漏れ聞こえてくる単語の一つ一つに耳を澄ませていると、隣から低く柔らかな声が届いた。


「——緊張していますか?」


 隣に立つテオバルトを見上げる。目が合った瞬間、オフィーリアは自然と微笑みながら「はい」と小さくうなずいた。

 テオバルトは、口元にわずかな笑みを浮かべたまま、周囲に目を配りながら言葉を続けた。


「緊張して当然です。こういう場は、私でも心のどこかで構えるものですから」

「テオバルト様でも、そんなことがあるのですね」

「もちろん」


 即答されたことが少し意外で、オフィーリアは思わず目を見張った。

 すでに何人もの来賓と挨拶を交わしてきたが、そのたびに見せるテオバルトの受け答えは落ち着きと自信に満ちており、そんな素振りは感じられなかった。

 

 オフィーリアは改めて、テオバルトの姿を見つめた。

 光を抑えた灰色の礼装は、華美な装飾を削ぎ落とした仕立て。けれどその姿はこの会場に集う誰よりも凛々しく映り、ただそこに立っているだけで、ひときわ目を引いた。

 それが外務卿としての地位によるものだけだとは思えない。彼には人の目を惹きつけるだけの魅力があるけれど、それはきっと歩んできた年月の中で積み重ねてきたものに違いなかった。

 その左胸に輝くのは、ラウレンティアの国章を刻んだ徽章。それを身につけることが許されているのは、大公と、限られた高官のみだと聞く。今日の彼は、まさしく外務卿としてこの場に立っている。

 今回の招待状には彼の名と並んで、自分の名前も記されていた。もう自分は、彼の隣に立つ者として見られている——それを実感した時、胸の奥がわずかにざわめいたのを覚えている。

 だからこそ、今日のこの一歩を確かなものにしたい

と思った。


 ふと気づけば、周囲の視線が静かにこちらへ向けられていた。

 緊張が戻りかけたその瞬間、隣でテオバルトが小さく笑う。


「視線は気にしなくて構いません。私が出席するのはこれが初めてですから、物珍しさもあるのでしょう」


 こうした招待をすべて受けることは難しい。これまでは必要に応じて代理人を立てていたのだと、以前話してくれた。

 今回は、新たに就任した執政(しっせい)が主催者であるという。前任とは異なり、市井の暮らしにも目を向ける誠実な人物なのだと、彼は穏やかに語っていた。

 言葉の端々からは、執政とは旧知の間柄であることもうかがえた。出席を決めたのは、そうした理由も含まれているのだろう。


 その時、ふらりと一人の男が近付いてきたことに気付き、オフィーリアは表情を整える。

 男はとある商人組合の代表だと名乗った。テオバルトは快く挨拶に応じ、その流れでオフィーリアを紹介する。

 「あぁ、お噂の」と、男はわずかに口元を緩めた。


「幸運というものは人を選びませんな。これほど華やかな場に立つとは、ご幼少の頃には想像もなさらなかったことでしょう」


 オフィーリアは静かに微笑みを保ちながら、男の言葉を反芻する。公の場でこうした発言を見過ごすことは、彼の威信にも関わってくる。

 適切な対応が必要だと——そう決めて扇子を持ち直したその時、テオバルトが静かに口を開いた。

 

「仰る通りです。私にとって、彼女と出会えたことは何よりの幸運でした。……しかし、そうしたご発言が許されるほどにこの場が開かれているとは。少々、意外ですね」


 テオバルトの声音は低く、静かな威圧感を帯びていた。いつもの温和な表情とは違う、冷ややかな眼差しが向けられている。

 男の顔が引きつった。「いや、その…失言を…」と曖昧に呟くと、居心地悪そうに会釈して足早に立ち去っていく。


「テオバルト様、ありがとうございました」

「当然のことです」


 テオバルトの横顔に目を向けた。琥珀色の瞳には、いつもの穏やかな光が戻っている。


「さて。そろそろ、執政へご挨拶に伺いましょうか」


 その一言に、オフィーリアは思わず自分の装いへと目を落とした。

 柔らかな光を受けるたびに微かに白を含む灰緑のドレスは、テオバルトに合わせて華美は装飾は控えて仕立てたもの。髪は、ドレスと同色のリボンを編み込んで低い位置でまとめることにした。

 左手では婚約指輪の青玉が静かに輝いている。オフィーリアは無意識のうちにそっと指先で石を撫でた。彼に選ばれた自分として、恥じることのないよう振る舞いたい。


「どうか、あまり気負わずに。あなたが隣にいてくださることが、私にとって一番心強いのです」


 テオバルトの手が伸びてきて、髪を飾るリボンをそっと整えてくれる。オフィーリアは手元の扇子を閉じると、差し出される腕に手をかける。


「行きましょう」


 その声に、オフィーリアは小さく頷いた。

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