第九十七話 やがて言葉になるその日まで
「……テオバルト様、でしたら……その、私は、構いません」
その言葉を聞いた瞬間、テオバルトの胸の奥で何かが静かに震えた。差し出される信頼の深さに息が詰まりそうになる。その事実が、言葉にできないほど尊く、愛おしい。
「ありがとうございます。では、拝見します」
ドレスの裾をわずかに持ち上げると、オフィーリアが控えめに片足を差し出してきた。
靴に手を添え、絹の靴下越しにそっと足に触れる。薄絹を通して、温もりが指先へ穏やかに伝わってくる。
「それほど、痛みはしません」
「捻りが浅くて何よりです。痛みが引かないようであれば医師を呼びましょう。具合によっては、今日の予定も考え直したほうが良いかもしれませんね」
患部に熱や腫れがないことを確認し、テオバルトは丁寧に裾を整える。
オフィーリアの返事がないことに気付いて視線を持ち上げれば、伏せられた眼差しとともに、躊躇いがちに口が開かれた。
「……私、まだ、あの朝のお返事が……できていなくて」
朝の光に紛れてしまいそうな小さな声に、オフィーリアの葛藤が滲むようだった。
返事——それは彼女にとって人生のすべてを変える決断に違いない。そう簡単に答えを出せるものではないだろう。
しかし、それで構わない。その迷いや悩みが、自分と歩む未来を想像した上で生まれているなら、それだけで十分だった。
自分の隣に立つために、努力を重ねながら歩んできたその足跡を、テオバルトは知っている。
愛している。それと同じ重さで、敬意と尊敬もまた彼女に向けられていた。だからこそ、オフィーリア自身の言葉で返されるその日を、誇りをもって待つことができる。
「答えを急ぐ必要はありません。あなたが望む時が、私にとっても最良です」
朝の風がオフィーリアの髪を揺らし、白金色が光を帯びる。木漏れ日の下、青灰色の大きな瞳がこちらを見ている。その色が不安に揺れるのを目にするたび、どうすればそれを取り除けるのか考えずにはいられない。
「……私が、おばあさんになってしまっても?」
「はい。白髪のあなたも、きっと変わらず美しいでしょうね」
オフィーリアは暫く何も言わなかった。やがて、困ったような、でもどこか嬉しそうな声で呟く。
「……テオバルト様は、私に甘すぎると思います」
「そうでしょうか。もっと甘やかしたいくらいですが」
そう言いながら立ち上がると、オフィーリアもまた腰を浮かせようとする。テオバルトはやんわりとそれを手で制した。
「屋敷までお連れします。少しの間だけ、私に任せてください」
オフィーリアは目を丸くした。一瞬、逡巡するように視線が彷徨い、それから小さく頷く。
身体を寄せれば、おずおずと伸びてきた腕が首へ回る。どこか慎重な動作に、戸惑いと信頼の両方が感じられる。
抱き上げると、以前よりわずかに増した重みに気付き、テオバルトは内心で安堵した。それは食事も睡眠も、きちんと取れている証。あの頃の痩せすぎた身体を思えば、今の健やかさがどれほど嬉しいことか。
「……あの、私、重たくないでしょうか?」
「まさか」
この細い身体のどこが重いというのだろう。胸元で聞こえたその小さな呟きに、テオバルトは抱える腕に力を込めた。
「それに、こうしてあなたを運ぶのも、初めてではありませんよ」
「えっ」
予想通りの反応に、笑みが溢れるのを隠す気にもなれなかった。
オフィーリアが胸元に顔を埋めてしまったせいで、その表情まではっきり見えないのが惜しいとさえ思う。
「あなたはよくお休みでしたから、覚えていないかもしれませんね。——さあ、ちゃんと掴まっていてください」
その言葉に、観念したようにオフィーリアが腕に力を込めた。白金色の髪が頬に触れるとともに、仄かに香る花の匂いがふわりと漂ってくる。
噴水の水音が少しずつ遠去かり、石畳を踏む足音だけが朝の静寂に響く。この幸せな重みを、ずっと忘れずにいたいと思った。




