第九十六話 いつかと変わらぬ輝きをして
「歌を?」
その申し出に、テオバルトは思わず息を呑んだ。
「はい。実は先日、子供達が歓迎の歌を披露してくれて——」
オフィーリアの声が、朝の光のなかでやわらかく響く。
歌姫という経歴を知っているかは不明だが、感想を求められるうちに助言する流れになり、いつの間にか子供たちに教えてほしいとせがまれるようになったのだという。孤児院での出来事を語るその表情には、楽しげな微笑みが浮かんでいる。
「学習の支援も始まったばかりですから、教えると言っても遊びのような形で、少しずつ触れていければ良いと思っています」
「そちらも順調だと聞いていますよ」
オフィーリアが孤児院への支援を申し出てきたとき、テオバルトは内心で少なからず驚きを覚えたものだ。
支援が打ち切られた件は把握しており、近いうちに侯爵家としての支援を整えるつもりではいた。しかし、まさか彼女が先にその意志を示すとは思っていなかった。
懸念があるとすれば、かつての自分自身と同じ境遇にいる子供たちに心を寄せすぎて、必要以上に背負い込んでしまわないか、ということだった。
それと並ぶように、ふと浮かぶ記憶がある。
喜んでほしい——その思いをまっすぐ言葉にしていた幼い姿が、今も鮮やかに残っている。家族へ向けた笑みと、澄んだ歌声。あの頃から彼女の歌は、誰かに寄り添うものだったのかもしれない。
今はまだ歌うことができなくても、新しい形で歌と向き合おうとしている。そう思えるようになったことが今は嬉しかった。
「歌を通して得られるものも多いでしょう。学ぶ心を育てるには、きっと良い始まりになります。——私に何かできることがあれば、遠慮なく仰ってください」
そう答えると、オフィーリアはぱちりと瞬きをした。
青灰色の瞳に映る驚きがことさら素直で微笑ましい。見つめ返すたびに、胸の奥が静かに満たされていく。
「私が反対するとお思いでしたか?」
「いいえ……ただ、テオバルト様にご迷惑がかからないかと、気掛かりでした」
オフィーリアの懸念が何に向けられているかは明白だった。彼女が孤児院に足繁く通い、子供たちに歌を教えると聞けば、それが誇張された噂として広まる可能性は十分にある。
「私にとって何より大切なのは、あなたがどうありたいかです。あなたがそうしたいと思うなら、迷う必要はありません」
彼女が何かを望むとき、その選択には必ず、静かに積み重ねられた思慮があった。だからこそ、信じて背を押せる。
同時に、それが彼女にとって本当に穏やかな時間であればいいと、ただそれだけを願わずにはいられなかった。
「……ありがとうございます。そう言っていただけて、ほっとしました」
「詳しい話は後ほど聞かせてください。……そろそろ戻られたほうが良さそうです」
屋敷の窓に侍女たちの姿が見えた。オフィーリアの支度の時間が迫っているのだと気付いたその時、隣から微かに布擦れの音がした。視線を戻すより早く、彼女の身体がぐらりと傾く。朝露に濡れた石畳に足を取られたのだと理解したのは、日傘を放るまま、もう一方の腕で細い腰を抱き留めた後だった。
華奢な身体が腕の中に収まり、一瞬遅れて淡い白金色の髪がふわりと舞い落ちた。小さな吐息が胸元に触れる。驚きに見開かれた青灰色の瞳が、すぐそこにあった。
「……大丈夫ですか? お怪我は?」
胸元に残る体温を静かに押し留めながら声を掛けると、オフィーリアもまた長い睫毛をそっと伏せた。
「少しだけ……足首を捻ったかも、しれません」
「あちらまで、歩けますか?」
すぐそばのベンチを指し示すと、オフィーリアは小さく頷く。歩くことに強い痛みはなさそうに見えた。オフィーリアが座るのを待ってから、足首の状態を確認しようと、テオバルトは膝を付いて手を伸ばした。
しかしドレスに触れる寸前で、ふと動きを止める。女性が素足を見せていいのは夫だけ——そんなしきたりが頭をよぎった。
「無作法でしたね。失礼しました」
言葉と共に手を引くと、オフィーリアはほんのりと頬を染めて視線を落とした。ドレスを握る指先が、かすかに震えているように見えた。
「……テオバルト様、でしたら……その、私は、構いません」
その言葉を聞いた瞬間、テオバルトの胸の奥で何かが静かに震えた。




