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第九十四話 剣の在処 

「……そう言えば、閣下の婚約者殿は、たしか——エストリエの()歌姫でしたな?」


 突然の話題の転換に、テオバルトは僅かに眉を顰めた。

 憶測は水のように必ずどこかで流れる。彼女の美貌と名声、立場の変遷——そのすべてが好奇の視線を招くに足る要素を備えている以上、ある程度は仕方のないことだ。

 しかし、この男の口からオフィーリアの名が出ること——いや、その存在を舌に乗せられること自体が酷く不愉快だった。答えるより先に、呼吸を一つ、意識の深くで整える。


「さすが北の方は情報にお詳しい。ご関心をお寄せいただくのはありがたいのですが、私的な事情について、この場でお話しすることは何もありません」

「それは残念。しかし、舞台に立つ女性というのはどうしても男性の視線を集めるもの。さぞ数々の殿方とお親しいのでしょうな」

 

 ヴォルフラムは椅子に深く腰を据え直し、わざとらしい抑揚をつけて言葉を継いだ。

 満足げな目には、反応を愉しむ意図が隠しきれなかった。静かな挑発が言葉の裏に滲んでいた。

 

「聞くところによれば、王室でも殊のほか寵愛を受けていたそうで。美しいものに目が利く王のお気に入りとあっては、その才能以上にご活躍の場も多かったのでは?」

 

 ざわりと、感情が波打った。微笑の形を保ったままの表情の下、胸の奥に張り付くような冷たさが、音もなく広がっていく。

 あの夜、自分の価値を確かめたいと願うように見上げてきた瞳と、縋りつくように戸惑っていた指先。その記憶は、今も皮膚の内側に息衝いている。

 多くの者が羨むような輝きも、彼女自身が望んで得たものではなかったはずだ。称賛を受け、光を浴びる一方で、どれだけのものを手放してきたのか。何も知らないくせに、さも見聞きしてきたような顔で下衆な憶測を並べ立てること。その下劣さに、ただ怒りが募る。


「ご関心の深さには感服します。さぞかし職務にもその洞察が活かされているのでしょう。せめてご立派な地位が報われるだけの振る舞いを、お示しいただきたいものです」

「これは手厳しい。外務卿殿の前では冗談も慎重に選ばなければなりませんな……しかし華やかなご婦人のこととなれば、つい熱がこもってしまうのも男の(さが)というやつでは? いや、失礼、これもまた品位に欠ける物言いでしたかな」 

「えぇ、全く。こうした話題となると途端に口数が増えるとは、ご趣味がよくわかります。是非ともその熱意を今後の建設的な対話にも注いでいただきたい。無論、今日のように貴重なお時間を割いていただく機会が次もあるかはわかりませんが」


 冷ややかに言い切ると、ヴォルフラムの口角が微かに引きつり、その目がこちらの顔色を伺うように細められる。しかしそれもすぐに押し隠され、いつもの嘲るような笑みに戻った。

 挑発に応じたと見たのか、それとも言葉の矢が届いた手応えに酔っているのか。公の場での発言とは思えぬほど節度を欠いた発言の数々に悪びれた様子はなく、ヴォルフラムは再び口を開く。


「まあ……過去がどうであれ、これからの姿を自らの手で整えていけるというのも、男の醍醐味というもの。若く美しい娘であれば、多少の粗もまた、躾け甲斐があるというものでしょうな」 


 明確に一線を踏み越えた発言に、一瞬、鋭い衝撃が全身を駆け巡った。戦場を離れて久しく触れていなかった感覚にどこか懐かしさを覚えながら、テオバルトはその男をまっすぐに見据える。

 ヴォルフラムの顔には、言ってやったとばかりの満足げな笑みが張り付いている。刻まれた皺のひとつひとつが、性根の醜さを誇示しているかのようだ。放った言葉の重みをまるで理解していない。


「外務卿ともあろう方が恐ろしい顔をなさるものだ。昔を思い出しますな」


 愉悦の混じった声音に、かつての寒風と硝煙の記憶が滲む。

 あの戦で命を賭けた者と、それを遠巻きに見ていただけの者との間には、永遠に埋まらない距離がある。だからこそこうして、気安く口にできるのだ。


「昔? あぁ——そちらが一方的に条約を破棄して侵攻してきた、あの国境戦ですか」

 

 その一言に、ヴォルフラムの口元がぴたりと止まった。返す言葉が見つからないとばかりに、わずかに目を伏せる。

 やがて、舌打ちを飲み込むように喉が動き、まるでそれを誤魔化すように口角を持ち上げた。

 その背後に控える男へと一瞥を送れば、彼は短く息を吐き、視線を落としながら静かに首を横に振った。セシルがペンを走らせる音も、少し前から止んでいる。

  

「これ以上、時間を割く理由が見当たりません。ここまでとさせていただきましょう」

 

 テオバルトは席を立った。最初に感じた怒りは、いつの間にか冷ややかな軽蔑に変わっていた。この程度の男に本気で憤慨していた自分が、むしろ滑稽に思える。

 扉へ向かおうとした時、視界の端でヴォルフラムがわずかに身を乗り出した。


「——しかしまぁ、剣を捨てたおかげか外務卿殿も随分と穏やかになったようにお見受けしますよ。平民の女を囲って悦に入るとは、あの頃の覇気はどこへやら」


 言葉の端々に滲むのは、侮蔑と焦りの混ざった悪意。節度や体面に配慮する素振りさえない。挑発にしても程度が低い。

 どこまでが計算で、どこからが暴走なのか——理解にかける時間さえ無駄に違いなかった。


「私が、何を捨てたと?」


 そう言った瞬間、ヴォルフラムは意味がわからないとでも言いたげに眉を寄せた。


「剣はただ置いただけです。大切なものが脅かされるなら、私は迷わず剣を取ります」

 

 捨てるどころか、武器ならあの頃よりも増えている。この男には、その違いが理解できないのだろう。明日も自分が今の地位にいると、疑うこともないのと同じように。


「——どうかお忘れなく」

  

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