第九十三話 仮面の継ぎ目
「閣下、まもなく面会のお時間です」
午後の陽が傾きかけた執務室に、セシルの声が静かに落ちた。テオバルトは手元の書類から視線を上げる。
「もうそんな時間か」
「はい。……そういえば、屋敷を出る際に奥様とお会いしました。お変わりないご様子でしたよ」
セシルの言葉に頷いたとき、胸の奥に、静かな波紋が広がった。──青灰色の瞳が、ふと脳裏をかすめる。まっすぐに見上げてくるその眼差しは、時が経っても変わらず胸の奥に届いてくる。彼女がそっと身を預けてくれるたび、自分の手がようやく安らぎを伝えられるものになったと、そう思えるようになった。
「……閣下は、奥様のどんなところに惹かれたのですか?」
思いがけない問いに、テオバルトは軽く眉を上げた。セシルの口からこの種の話が出るのは珍しい。
「お前がそんなことを聞いてくるとは。気になる相手でもできたのか」
「……そういうわけではありませんが」
目を逸らしながら答えるセシルに感情の端が覗くようで、テオバルトはごくわずかに口元を緩めた。
「今は公務中だ。その話は、いずれ機会があればな」
セシルの問いに口で答えることはなかったが、心の中には、ひとつだけ確かな思いがあった。
どんな時でも彼女は自分の足で立ち、前を向く。嘆くことなく、静かに、今できることを積み重ねていく──その姿に惹かれたのだ。
思考の余韻を切り離すようにテオバルトは小さく息を吐き、机上の書類を整える。椅子を引いて立ち上がると、視線の先にはすでに出入口へ向かうセシルの背があった。
◇
「——お忙しい中、貴重なお時間を割いていただき感謝します。ヴォルフラム殿」
「まさか外務卿直々にお時間をお取りいただけるとは思いませんでしたな。——よほどの事情でも?」
笑みを浮かべながらそう言うヴォルフラム・リンドベリには、わざとらしいほどの余裕が漂っていた。北方の意匠を取り入れた上着は涼やかな仕立てで、その軽やかさにも挑発めいた誇示の気配が滲んでいる。
その背後には使節団の男が一人控えていた。視線が交わった瞬間、男は小さく頭を下げる。彼は穏健派の人間であり、すでに非公式の場で言葉を交わした相手だった。
こちら側にもまた、セシルが控えている。書類の束を受け取ると、テオバルトはその手を緩やかに動かしながら穏やかに告げた。
「いいえ、そのようなことはありません。実は、こちらからお伺いしたいことがあっての席です」
「……何でしょうかね?」
一瞬、ヴォルフラムの口元に緊張が走ったように見えた。
アルスガード内の権力争いは、表向きようやく一段落を見た。強硬派の後ろ盾を失いつつある彼の立場はかつてほど盤石ではない。にもかかわらず、最近になって妙な動きが目立つようになった。
現状を悟り、次なる保身の道を探ったか。あるいは、すでに新たな権力者の傘下に収まったのか。どちらにせよこれまでの粗雑さとは異なる不自然さを帯びていた。
最近接触しているラウレンティアの商人についても調査したが、身元に特段の問題は見当たらなかった。
本人は水面下で動いていたらしい不法行為の証拠はすでに揃っている。いつでも手を打てる状況にはあったが、その前に少し探ってみる価値はある。——そのために、今日の場を設けた。
「最近は随分と活動的だと伺っております。我が国の社交界にも関心をお持ちと見える。新しいご友人でもできましたか?」
「えぇ、まあ。——どちらでその話をお聞きに?」
「いえ、どこというわけでは。噂とは得てして、自然と耳に届くものですから」
穏やかに返しながら、視線をヴォルフラムの表情へと滑らせる。微かな眉の動きや口元の張り方に、わずかな緊張の兆しが浮かんでいた。
そうした変化を見逃さぬよう意識の奥に置いたまま、声の調子はあくまで柔らかく保つ。
「社交界への関心ということで言えば、近々の交歓会にも出席をご希望されていたとか——」
招待状を手に入れるべく関係者に声をかけていたことも、すでに把握している。主催者からは断りの返事をされているものの、これまでの執念深さを思えば、なお別の手を探っている可能性も捨てきれない。
交歓会以外にも、文化サロンや慈善事業の会合などにも接触しようとした形跡がある。つまらない小銭稼ぎに精を出すばかりだった男にしては妙だった。
「——ほかにも、いくつかお顔を出されようとした場があったようですね」
そう尋ねれば、ヴォルフラムはわずかに視線を逸らし、言い淀む。一見すれば場慣れした応対のようでも、その動きの端々にはわずかな齟齬が滲んでいた。年季の入った仮面ほど、継ぎ目は際立つものだ。
それからも会話を続けながら、慎重に探りを入れた。ヴォルフラムは注意深く答えようとしているが、時折見せる反応の仕方に一貫性がない。自分の判断だけで動いているわけではないのだろう。
しかしこれ以上ヴォルフラムを問い詰めても、有益な情報は望めない。少なくとも情報源としての役割は終えた。——あとは軍部に引き渡し、取り調べに委ねるべきだ。
テオバルトがそう判断した刹那、ヴォルフラムの表情がふと強張る。もともと建前を保つのが苦手な男だった。
やがて、何かを決意したように顎を上げ、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「……そう言えば、閣下の婚約者殿は、たしか——エストリエの元歌姫でしたな?」
突然の話題の転換に、テオバルトは僅かに眉を顰めた。




