第九十二話 そして今、誰かの願いになるならば
初めての視察とあって緊張していたものの、実務を担うクラウスが間に入ってくれることもあり、職員たちとの話は円滑に進んだ。
支援の申し出から日は浅いが、物資はすでに必要な分が行き届き、子供たちの生活に大きな不安は見られない。
学習面での支援も、来月から本格的に動き出す予定だと聞いている。それが実現すれば、ここで育った子供たちの未来はきっと少しずつ良い方向へ変わっていく。そんな確信があった。
院長をはじめ職員たちはこちらの言葉に耳を傾け、質問にも誠実に答えてくれた。礼儀を欠くような態度は誰からも感じられない。ただ、その視線の奥に何があるかまでは読み切れない。好意、疑念、試すような眼差し——どれも、有り得る気がした。
応接室を出ると、どこからか楽しげな笑い声が聞こえてくる。院長の案内を受けて廊下を進むうち、話題は自然と子供達へ移っていく。
「先日はたくさんの本が届きました。ありがとうございます。恥ずかしながら、そこまで手が回らなかったものですから…」
国からの支援は形ばかりで、衣食住の最低限を維持するのがやっとと聞いていた。それらはどうしても、衣食住といった日々の暮らしに直結するものに使われてしまうという。
特に子供向けの絵本のようなものは贅沢品と見なされ、寄付でもされないかぎり、この院に置かれることはまずなかったそうだ。
(……どの国でも、それは変わらないのね)
オフィーリアが初めて本に触れたのも、王宮に上がってからのことだった。箔押しの施された装丁、指先にざらりと伝わる紙の感触。頁をめくるたびに現れる見知らぬ文字。
王宮にいるために、歌うために、たくさんのことを学ばなければならなかった。本の内容をすべて覚えるよう言われるたび、教師たちの期待に応えようと寝る間も惜しんでいた。
ただ覚えるだけでもきっと意味はある。けれどいま目の前にいる子供達には、そうではない始まりを用意してあげたかった。
「あの本が、学ぶことに興味を持つきっかけになれば嬉しいです」
「ええ。本当に、そう思います」
会話が途切れた静かな一瞬、ふとオフィーリアは足を止めた。廊下の硝子窓へ目を向ければ、部屋の中で子供達が思い思いに遊ぶ様子が見える。
この部屋には年齢の低い子供が集められているようで、数人の職員もいた。その光景を目にしながら、オフィーリアが再び歩を進めようとしたその時、すぐそばの扉が、かすかな音を立てて開いた。
そこから顔を覗かせたのは、まだ年端もいかない女の子。小さな腕に一冊の絵物語を抱え、そのまま躊躇うことなくオフィーリアへ向かって歩み出して来た時、視界の端でベルナと院長がわずかに身を乗り出しかけた。
オフィーリアはそっと一歩前へ出て、ゆるやかに膝を折り、小さなリタの目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。それだけで、周囲の気配がすっと静まる。
「こんにちは、リタ。私のこと、覚えているかしら?」
そう声を掛けると、リタは小さく頷く。黒目がちの瞳に光を宿し、まっすぐオフィーリアを見つめていた。言葉はなくとも、仕草のひとつひとつが幼い好意と好奇心を伝えてくるようだった。
「その絵本にはね、綺麗な絵がたくさん描かれているの。きっと好きになると思うわ」
ほとんどの子供がまだ文字の読み書きができないと聞いていたから、眺めるだけでも楽しめる絵物語を多く用意していた。
本を抱いていた小さな手がひとつ、そろそろとこちらに伸ばされる——ちょうどその時だった。
「子供が、失礼いたしました」
声と共に伸びてきた手が、リタをふわりと抱き上げる。揃いの制服を身に付けた若い女性職員だった。
自分とそう変わらない年齢だろうか——けれど、その目に宿る光には、年相応とは思えない硬さがあった。
「お召し物が汚れてしまっては大変ですから」
どこか突き放すような冷たい声にオフィーリアは一瞬戸惑いを覚えながらも、微笑みを崩さずに口を開く。
「どうかお気になさらず。私も、小さな子と触れ合うのが好きなんです」
「いいえ。侯爵家の方に、子供の世話までさせるわけにはいきません」
「世話というほどのことはできませんが、子供達がどのように過ごしているかも、是非見せていただければと思います」
そう返しても、相手の表情に大きな変化はなかった。腕の中でリタが身じろげば、優しく抱き直し、癖のついた髪をそっと撫でて整えてやる。その手つきには確かな慈しみがあったのに、こちらへ向ける眼差しには冷ややかな硬さが宿り、慎重に距離を測るような気配があった。
「……子供達も、普段と違う雰囲気に戸惑っているようです。必要な視察だとしても、無理のない範囲でお願いいたします」
視界の端で、院長の顔色がさっと変わるのが見えた。言葉そのものは丁寧であっても、そこに含まれた意図には、きっと誰もが気付いている。
「もちろんです。皆さんのご負担にならないよう努めます」
まだ何か言いたげな視線を受け止めつつ、オフィーリアが静かに応じたところで、院長の声が割って入った。
「イルゼ。あなたはもう戻りなさい」
一瞬の沈黙が落ちた。名を呼ばれた職員は何か言いかけたように唇を動かしたが、結局何も言わずに軽く頭を下げただけだった。
乾いた音を立てて扉が閉まると、院長はすぐにオフィーリアへ向き直り、深く頭を下げる。
「あの者の態度に不快な点がありましたこと、大変申し訳ございませんでした。どうかお許しくださいませ」
自分の娘ほどの年齢の相手に躊躇いひとつ見せず頭を下げるその姿に、背負う責任と緊張が滲んでいるようだった。
もしここで「許さない」と言ったなら、あの職員はこの院を追われるだろう。そしてそれは、貴族と平民という立場の違いによって、当然の報いとして片付けられてしまう。自分の言葉がそれだけの力を持つかもしれないことに、酷く冷たい重みを感じた。
「問題にするつもりはありません。皆さんが誠実に子供達と向き合っていらっしゃることは、十分に伝わってきますから」
そう答えれば、院長が明らかに安堵の息を吐くのがわかる。
グローズベルグ公爵家の支援が一方的に打ち切られてからシュルテンハイム侯爵家が申し出るまでに、そう日は経っていない。けれど寄付金を頼りに運営する施設にとって、次の支援先が決まるまでの時間はきっと、底の見えない深淵に立つような日々だったはずだ。
もし再び侯爵家の機嫌を損ね、支援を打ち切られるようなことがあれば——二度もそうした揉め事を起こした施設に、三たび手を差し伸べてくれる後援者は、もう現れないかもしれない。
「院長。先程の方は、前回はいなかったように思います」
「はい。この孤児院の出身ですが、雇われたのは最近です」
ということは、彼女もまた厳しい環境の中で育ったのかもしれない。
この場所で育ち、今は大人としてここに戻ってきたのだとしたら、その選択には何か強い思いがあったはずだ。
「——それから、このことは、テオバルト様には報告しなくて結構です」
ゆっくりと振り返り、そう告げた自分の声には、我ながら穏やかな強さが宿っているように思えた。
「必要があれば、私の口からお伝えします。今はまだその時ではありませんから」
クラウスとベルナは、どちらからともなく静かに頷いた。
多忙な彼を些細なことで煩わせたくない——その思いもある。けれどそれ以上に引っかかっていたのは、あの眼差し。
拒絶とも警戒ともつかない、いくつもの感情が入り混じったようなその色は、かつての自分が胸の奥に押し込めていたものと、どこか似ているような気がした。




