第九十一話 いつかその名に恥じないように
窓の向こうには晴れた夏空が広がり、朝露を湛えた庭の草花が、陽光を受けてほのかに輝いていた。夜の余韻をまだ手放しきれない空気が、窓辺に立つオフィーリアの肌を優しく撫でていく。
肌に張り付くような湿気を帯びたエストリエとは違い、ラウレンティアの夏風はどこか乾いていて、触れられるたび心まで落ち着いていくようだった。
今日はこれから、グローズベルグ公爵家が支援を打ち切った——このシュルテンハイム侯爵家の新たな支援先となった孤児院を訪問する予定だった。
あの夜の言葉通り、既にクラウスの指揮下で担当者たちが動いてくれている。彼らに任せておけば何も問題ないとしても、どうしても一度きちんと孤児院の様子を自分の目で見たいと思っていた。
先日の視察同様、選んだのは歩きやすいようわずかに丈を短く仕立てたドレスだった。
装飾はごく控えめだが、侯爵夫人としての品位を損なわぬよう細部まで丁寧に整えられている。
普段は下ろしていることが多い髪も、今日はすべてを結い上げている。ベルナが一手間かけてくれた編み込みのおかげで、ほんの少しだけ堅苦しさも和らいだ気がした。
「奥様、そろそろお時間です」
ベルナの声に振り返りながら、オフィーリアはわずかに笑みを浮かべる。
形式上はそれが正しい呼称だと理解していても、まだ自分には過ぎたもののようで、呼ばれるたびにどこかくすぐったい。
「……奥様という呼ばれ方、実はまだ少し慣れないの」
「その言葉が自然に馴染むようになる日を誰より喜ばれるのは、きっと旦那様でしょうね」
微笑みと共に告げられたその一言が、歩き出した足取りにそっと温もりを添える。並んで廊下を進むうちに、オフィーリアは少しだけ目を伏せた。
自分を選んでくれたことも、待つと言ってくれたことも、どれほど深い愛情と覚悟に裏打ちされたものだろう。だからこそ、その名にふさわしい自分でありたいと、心の奥で静かに思う。
玄関ホールに続く廊下を曲がったところで、オフィーリアはそっと歩みを緩めた。
扉の隙間から見えたのは、テオバルトとクラウスが並んで立ち、何かを話している姿だった。出仕前の最終確認だろうか。二人とも真剣な表情をしている。
邪魔をしてはいけないと、そう思って一歩下がりかけたところで、ふと視線が吸い寄せられた。
朝の光を受けて浮かび上がる端正な横顔。彫りの深い目元にかかる金褐色の髪は柔らかく光を透かし、口元には静かな緊張が宿っている。凛々しい美貌には未だ見慣れることがない。
視線の先でわずかに顔を上げたテオバルトが、こちらに気付く。鋭かった眼差しが、まるで氷が陽にほどけるようにふっと和らいでいく、その変化がたまらなかった。
彼はただ、いつも通りに微笑んだだけかもしれない。けれど、目が合ったその瞬間、自分が確かに特別に見られているのだと感じてしまう。
自然と、足が前に出た。足取りが自然と軽くなっていくのがわかる。
「……お話、一区切りついたところでしょうか?」
オフィーリアがそう声をかけた瞬間、テオバルトはクラウスとのやりとりを静かに終え、真っ直ぐにこちらへ向き直った。
テオバルトの眼差しがもう一度、そっとオフィーリアの全身を撫でるように流れていく。
「ええ、ちょうど終わったところです」
微笑みながら答えたテオバルトの腕が、自然な流れでオフィーリアの身体を引き寄せる。その胸元におさまる瞬間、心がゆるやかにほどけていく感覚がとても心地良い。
頭ひとつ分ほどの距離を埋めるように見上げると、彼の微笑みがすぐそこにあった。さらりと流れる前髪を固い指先がよけ、テオバルトはふとそのまま身を屈め、オフィーリアの額にそっと唇を寄せる。
「いつもと少し印象が違いますね。ですが、よくお似合いです」
穏やかな声に、背筋がほんのわずかに伸びる気がした。
「本来なら私が付き添いたいところなのですが……今回はどうしても都合がつかずに、すみません。それだけが少々、気がかりです」
「お気遣いありがとうございます。代わりにクラウスが来てくれますから、きっと大丈夫です」
彼はこの日のために予定を調整してくれていたが、直前で急な公務が入ってしまい、代わりにクラウスが同行してくれることになっていた。
視線を外すことなく、申し訳なさそうに続けられる言葉に、オフィーリアは微笑みを返した。
外務卿である彼にしか成し得ない務めがあることはよくわかっている。
「……どうかお気を付けて。今晩、また話を聞かせてください」
「はい。行って参ります」
どこか名残惜しそうに言いながら、テオバルトが乱れた前髪を整えてくれる。その指先が、眼差しが、声が、離れていたとしても守ってくれるような気がした。




