第九十話 かつて何も持たずにいた子供へ
「——子供たちの様子に変わりはありませんか?」
「はい。おかげさまで、みな元気に過ごしております」
テオバルトの問いかけに、院長は小さく頷いて答える。どの子も健康状態に問題はなく、食料も医療品も行き届いているという。静かに交わされる会話に、無駄なやりとりはひとつもない。
支援先の視察に行ってみるのもいいかもしれない——テオバルトがそう言ったのは、ほんの数日前のこと。その提案は思いのほか早く実現し、今日はこうして彼に同行している。公都の外れにある、小さな孤児院だった。
廊下の窓から差し込む光が白く磨かれた床に反射し、どの部屋にも清潔な空気が満ちていた。どこからか聞こえてくる小さな笑い声に、遠い記憶の端を撫でられたようだった。
呼び起こすつもりのなかった景色が、足元の光に溶けるように滲んでくる。薄暗い廊下、破れかけた靴、体を寄せ合い、息を潜めて朝を待った夜のこと——胸に落ちた痛みを、オフィーリアはそっと飲み込んだ。
「リア」
少し先から届いたテオバルトの声に、意識を引き戻される。顔を上げれば、テオバルトと院長がひとつの扉の前で足を止めていた。足早に歩み寄り、オフィーリアは促されるまま扉の小窓から様子を伺った。
部屋の中では、子供たちが机に向かい、熱心に鉛筆を走らせている。壁に据えられた黒板には数字が並び、いくつもの真剣な眼差しが、黒板と手元の帳面を行き来する。
資料を読んで、学びの場が設けられていることは知っていた。けれど、実際にこうして小さな手が懸命に文字をなぞる光景を目にすると、どこか胸の奥が締め付けられるような感覚がある。
「年齢に応じて、読み書きと基礎的な計算を。ほかにも本人の適性や希望に合わせ、縫製や調理などを実地で身に付けさせています」
隣に立つテオバルトの説明に、オフィーリアは頷きで応えることしかできなかった。
学ぶことが、生きるためにどれほどの意味を持つか。それは言葉で教えられるまでもなく、身をもって知っている。
帳面に鉛筆を走らせる小さな背中を見つめながら、オフィーリアはゆっくりと息を吐いた。
◇
視察の一巡が終わったあと、職員の案内で、子供たちとの対面の場が設けられた。
庭に面した大部屋には、大きな窓からやわらかな日差しが差し込み、子供たちの足元に淡く広がっている。
オフィーリアはそっと傍に立つテオバルトを見上げた。いつも自分を見つめる穏やかな琥珀色の瞳が、今は別のところを——目の前にいる子供たちに向けられている。そのことが、なにより嬉しかった。
テオバルトが子供たちに向かって短く挨拶をする。皆が元気に過ごしていると聞いて嬉しく思っていること。これからもたくさんのことを学んでほしいこと。
それは子供にもわかるような、簡単な言葉で紡がれている。静かな声には優しさだけではない、まっすぐな願いが込められているようだった。
そして最後に、テオバルトは隣に立つオフィーリアを紹介した。たくさんの瞳に見つめられる中、オフィーリアは一歩前に出ると軽く頭を下げる。
「はじめまして。オフィーリアといいます。皆さんのこと、このおうちのことを、もっと知りたいと思っています。いろいろ教えてもらえると嬉しいです」
きちんと膝をそろえて床に座る子供たちは、どの子も清潔な服を着て、ふっくらとした頬には健やかさが滲んでいる。
小さな肩を寄せ合って空腹に耐えていた、あの頃の自分とは違う。そのすべてが祝福のように眩しくて、思わず目を細めた。
「オフィーリアさまは、なんのお仕事をしている人ですか?」
目の前に座っていた女の子が、小さく手を上げる。投げかけられた問いに笑みがこぼれるのを感じながら、オフィーリアはその子の目線の高さに合わせて膝を折る。
動きに合わせてドレスのスカートが床にふわりと広がった時、わぁ、と小さく息を呑む声がどこかから聞こえた。
「今日はみんなと会って、お話を聞くことがお仕事なの。とっても素敵なお仕事だと思わない?」
オフィーリアの声に、女の子の顔がぱっと明るくなる。ふと気づくと、他の子供たちも興味津々とばかりにこちらをうかがっていた。
目線を合わせれば、恥ずかしそうに逸らす子も、笑み返してくれる子もいる。いくつかの視線がドレスに向けられていることに気付いたオフィーリアは、軽く裾をつまんで見せた。
「この花の名前、わかる人はいる?」
布と同じ色で施された刺繍の花模様が光を受けて煌めく。この季節、街中の花壇にもよく見られる、素朴で可憐な花。
問いかけると、次々と元気な声が上がる。その中のひとつにオフィーリアは微笑みながら頷いた。
「そう。みんな、よく知ってるのね」
「お庭に咲いてるんだよ。見たい?」
「見せてくれるの?」
子供たちに誘われるまま思わず歩みかけた足を、オフィーリアはそっと止めた。屋外へ出ることは、室内で膝を折って話しかけるのとはわけが違う。
視察という場で、自分がどう振る舞うべきか——それを判断するにはまだほんの少しだけ、自信が足りなかった。
「少しだけなら、構いませんよ」
テオバルトの静かな声。その顔に浮かぶわずかな笑みが優しく背中を押してくれるようだった。
日傘を手に、ドレスの裾を押さえながら、オフィーリアは子供たちと一緒に庭へ足を運ぶ。
毎日交代で水遣りをしているという花壇には、夏の草花が風に揺れている。「あの花だよ」と教えてくれる声に、自然と顔が綻ぶのを感じた。
◇
動き出した馬車の窓の向こうで、子供たちの姿がゆっくりと遠ざかっていく。
見送る小さな手のひらと笑顔が、目に焼きついて離れなかった。
「視察はどうでしたか? 何かしら参考になるものがあれば良いのですが」
隣から届いた声に、オフィーリアは景色から視線を戻した。
「はい。とても勉強になりました。貴重な機会をありがとうございます」
施設の運営については一通りの説明を聞いた。食事の質や衛生状態、定期的な医師の往診。今後の方針や課題など、テオバルトは職員たちと直に言葉を交わしていた。
中でも強く印象に残ったのは、就労支援だった。子供の進路について丁寧に綴られた記録。孤児院を出たあとの暮らしにも寄り添う姿勢があった。
たとえ職を失っても、路頭に迷うことはない。そう信じられる仕組みが、国の制度ではなく——彼の意志でなされていること。……その事実が、胸の奥をふるわせた。
「子供たちの様子を見て……テオバルト様のお考えがまっすぐに届いていることが、よくわかりました」
微笑みながら、丁寧に言葉を選ぶ。けれど心のうちでは別の声が静かに囁いている。
(——私も、あんな場所にいたかった)
幼い自分には手の届かなかったもの。望むことすらできなかったもの。
子供たちはそれを受け取っていた。与えてくれる人がいて、守ってくれる場所がある。それは確かに喜ばしいことで、だからこそ、ほんの少しだけ、胸の奥が軋む。
「私も、私にできる限りのことをしたいと思います」
膝の上で、両手の指がスカートを握り込む。
それでも表情は笑みのかたちを保っていた。社交の場で身につけたもの。彼の隣にふさわしい自分であるために身に付けた術だった。
「……リア。あなたの胸にあるものを、独りで支えようとしなくてもいい」
穏やかな、優しい声。温かな手がそっと重なり、指先まで静かに包まれていく。
「その時が来たら……あなたの声で、あなたの想いを聞かせてください」
その琥珀色の瞳には、どこまでも静かで、揺るがない光がある。
オフィーリアはふと思った。まるで——ずっと昔から、自分のことを知ってくれていたかのようだ、と。
応えようとして、けれど言葉は見つからなかった。ただ、重なるテオバルトの手に、そっと指を絡める。
それが、今の自分にできる、たったひとつの返事だった。




