第八十九話 名もなき光が、そのまま消えてしまわぬように
長く伸びた夏の影を背に、テオバルトはいつものように穏やかな足取りで屋敷へと戻ってきた。公務の疲れを巧みに隠してはいたが、肩にわずかに残る張りをクラウスは見逃さない。
けれど、それも一瞬のことだった。屋敷に足を踏み入れ、オフィーリアの姿を目にした途端、張っていた気配が静かにほどけた。目元に浮かんだ微かな笑みが、安堵の色を物語っていた。
出迎えるオフィーリアの様子も、ここ数日とはどこか違っていた。控えめな物腰や言葉遣いは変わらない。けれど瞳の奥に、迷いの合間から少しずつ姿を現す、静かな意志のようなものが見えた。
すでに彼女は語る言葉を選び終えていた。控えていたベルナにそっと視線を向けると、彼女は小さく微笑んで頷く。それだけで十分だった。
「……食事の前に、お話ししたいことがあります」
丁寧な挨拶のすぐあとに続いた真剣な言葉。テオバルトは目元をわずかに緩めて微笑みを返す。それは彼にしては珍しく、ためらいのない柔らかさだった。
「ええ、もちろん。書斎で伺いましょう」
彼もずっとオフィーリアの様子に注意を向けていながら、何も言わずにいた。彼女が自分たちと少しずつ話す中で気持ちを整理していることもわかった上で、言葉が彼女の口から出るのを静かに待っていた。
政務の場であれば、誰に対しても一歩も退かずに言葉を尽くす人だ。それがオフィーリアに関しては、言葉ひとつ選ぶにも慎重になりすぎる。その慎ましさは、ふたりの関係を焦らず築こうとする彼なりの誠実さでもあった。
資料はすでに整えてある。あとは、必要とされるその時に、適切なかたちで差し出すだけだった。
◇
扉が静かに閉まると、不思議なほど空気が落ち着いて感じられた。けれど、思いを言葉に変えるには、このくらいの静けさが必要だった。
向かいの椅子に腰を下ろしたテオバルトが、自分と目線の高さを合わせるように姿勢を整えるのを待って、オフィーリアは口を開く。
「お疲れのところ、お時間をいただいてすみません。その……」
言葉を選ぶ時間は、十分にあった。けれど、選び終えたはずの言葉が、すぐに喉元を越えるわけではない。
それは迷いが残っているからというよりも、自分の中にある戸惑いに、まだ名前をつけられていないからかもしれない。
沈黙が数拍、ゆるやかに流れた。オフィーリアの口元がわずかに動いては止まる。言葉にしなければならないと、ずっと思っていた。けれどいざ目の前にその人を据えると、どこから話せばいいのかわからなくなる。その様子を見ていたテオバルトが、ふと穏やかに口を開く。
「この時間はあなたのためにあります。焦らずに、ゆっくりでいい。……あなたのお気持ちを聞かせてください」
優しい声音が静かに落ちると、胸の奥に絡まっていたものがわずかに緩んだ気がした。
躊躇いと決意が同じ場所に立っているような感覚のまま、オフィーリアは視線を落としながら口を開く。
「……先日の茶会で、ある孤児院への支援が、打ち切られてしまったと、聞きました」
その孤児院へは一度だけ慰問したことがあること。ほんの少しだけ子供たちと触れ合ったこと。小さく、温かな手の感触を今も覚えていること。
言いながら、あの日の空気が微かに蘇る。数多く飛び交う噂話のひとつとして持ち出されたその話は、すぐ別の話題へ移り変わり、戻っては来なかった。
貴族たちの興味は、あくまでも公爵家の立場が大きく揺らいだことだけ。支援が打ち切られたことで、そこで暮らす子供たちにどのような影響があるかは、誰も気にかけていない。——まるで孤児たちが、語るに値しない存在かのように。
その無関心さが過去の傷に触れるたび、他人事とは思えなかった。その日の食事にも苦労したあの日々も、そうやって誰かに忘れられた結果なのかもしれない——と。
オフィーリアはそっと、膝の上で両手の指を絡めた。ここ数日ずっと考えていたことを、ついに声に乗せる時、自分の心臓の音がやけに大きく耳に響く。
「あの夜、私たちが正しい選択をしたのだとしても……それが巡り巡って、誰かの暮らしを脅かしているのだとしたら、それは、私が向き合わなければならないことです。……今後の支援を、私から申し出たいと思っています。侯爵家として、既にいくつかの施設に関わっていることは知っています。その中に、あの孤児院も加えていただくことは、可能でしょうか」
テオバルトは一度だけ瞬きをし、それから小さく頷いた。
「もちろんです。何の問題もありません」
「ありがとうございます。……その、もしできることなら、支援の実務においても、私自身の手で何か関わらせていただけたら、と」
言い終えて一息ついたつもりだったのに、口を閉じる前に胸の奥から別の言葉がせり上がってくる。テオバルトの返事を待てず、気付けばもう次の言葉を重ねていた。
「テオバルト様やクラウスにお任せするほうが、より的確に進めてくださることはわかっています。私が口を挟む立場ではないことも、重々承知しています。それでも、私自身も、できる範囲で……何か、できることをしたいのです」
なぜ、これほどまでこの件に心を動かされるのか。その問いが頭をよぎるたび、胸の奥に名もなく広がる痛みと、どうしようもない切なさがあった。
それは単なる同情ではなく、もっと深い所で繋がっている何か。けれど、その感覚がどこから来ているのかは、まだ自分でもはっきりわからない。言葉にはできないまま、ずっと胸の内に残り続けている小さな棘のようで。気づかぬふりをしていても、呼吸のたびに確かにそこにあるのがわかる。
彼がこうした申し出を無碍にする人ではないとわかっていても、自分の思いがうまく届いているか、伝え方を間違えていないか——つい、余計なことまで口にしてしまう。ようやく言葉を終えてから、自分ばかりが一方的に話していることに気付いて、オフィーリアは目を伏せた。
短い沈黙の中、気配がゆるやかに変わるのを感じた。顔を上げると、柔らかな光を湛えた琥珀色の瞳がこちらを見つめている。それは言葉にするよりも早く、応えが宿っているようだった。
「あなたのお気持ちは、よくわかりました。実務の面は私とクラウスが整えます。あなたがどのようなかたちで関わっていくか、共に考えていきましょう。支援している施設へ、視察に行ってみるのも良いかもしれません。参考になることがきっとあるはずです」
その言葉が落ち着いた声で告げられた瞬間、胸の奥に張りつめていたものがようやくほどけていくのを感じた。すべてを受け入れられたという手応え以上に、彼が何の迷いもなくそう言ってくれたことに、肩の力がふっと抜けるような感覚が訪れた。
室内に穏やかな静寂が戻る中、壁際に控えていたベルナが扉のほうへと動いた気配がした。ほどなくして扉が開き、クラウスが静かに入室する。
「明日からでも動けるよう、すべてこちらに整えております」
迷いなく部屋の中央へ進み出たクラウスが、手にしていた書類をテーブルに並べた。白い紙の上に、あの孤児院の名前を見つけて、オフィーリアは思わず手を伸ばす。
そこには、孤児院の基本的な情報と、今の状況が簡潔に記されていた。今後予定している流れや、現在関わっている施設の一覧と、支援の内容。
その整然とした記録に、思わず指先で紙の端をなぞりながら、小さく息を吐く。
「準備の良いことだ」
書類に一瞥を落としたテオバルトが、静かにそう言った。その声音に、少しだけ肩の力の抜けたような柔らかさが混じっていて、オフィーリアは顔を上げた。
互いの視線がちょうど重なった瞬間、テオバルトの口元に浮かんだ微笑みに、オフィーリアもまた自然と笑顔を返した。




