第八十八話 正しくなくとも引かれる線のその先に
「……お耳に入ったとのことで、大変恐れ入ります。妻の行き届かぬ振る舞いがございましたなら、誠に申し訳ございません。……いかなるご不快もおかけせぬよう、以後は細心の注意を払わせます」
緊張を崩さず返された返答の端に、曖昧さが滲んでいた。
オフィーリアが笑って受け流すとしても、問題ないと答えたとしても、それが本心とは限らない。声は取り戻せても未だ歌えないという事実を彼女がどう受け止めているかを完全に理解することはできない以上、打てる手は打っておくべきだ。
根回しは済ませていたはずだが、不十分だったらしい。このまま解放してやりすごせたと誤解されるのは好ましくない。念のため、もう一押しくらいはしておくべきだろう。
「……実は、あの夜会以降、彼女の顔色が優れないようでして。お気遣いをいただいた直後のことでしたから、少々気がかりでなりません」
伏し目がちに言葉を置いたその刹那、伯爵の顔からさっと血の気が引く。明らかに何かを想像している。自分の声の温度が相手にどう届いたかはわかっている。少し過剰なくらいがちょうど良い。それでようやく、境界線が引けるのだから。なによりも、あの茶会以降、オフィーリアが何かを悩んでいるらしいのは事実だった。
伯爵は返答に詰まる。かすかに開いた唇から音が出るまでの間が、妙に長い。緊張が肌に伝わるようで、誰もいない回廊の静けさが逆に言葉を重たくしていた。
やがて絞り出すような声が、静かな回廊に落ちる。
「……まことに、申し訳ございません。妻ともよく話し合い、今後はこのようなことのないよう……」
「恐れ入ります。お気を煩わせてしまったようで、こちらこそ申し訳ありません」
視線を逸らすことなく、テオバルトは伯爵の反応を静かに見届けていた。
この会話は彼一人に向けたものではない。いずれどこかで伝わり、誰かの耳に入り、それなりの効果を持つとわかっている。夜会の余波がまだ冷めきらない今なら、より確実な効果をもたらすだろう。
——あの夜、公爵が自らの言葉で失脚するよう誘導したのは確かだが、必要な対処だった。
あの男の言動は日に日に過激さを増しており、このまま放置すれば、いずれ取り返しのつかない問題を招くだろうと目されていた。早めに手を打つべきという判断は宰相とも共通認識だった。
失脚の舞台があの夜会になったことについては思うところもあるが、結果的に、大きな混乱なく事を収めることができた。
処分の内容そのものは妥当だ。職を辞するのは当然で、爵位が弟へ継がれたのも家門の存続を許すための最低限の措置。一族の何人かが速やかに大公への忠誠を誓ったことが、それ以上の追及を逃れた理由だ。
公的には妥当な落とし所であり抑止としても十分な効果があった。だが私情が混じっていた分、誇れる策ではなかった。だからこそ今回は、ただ言葉を置いておく。動かずに済むなら、それに越したことはない。
「——彼女はまだ若く、慣れない場で侯爵夫人としての務めを学び始めたばかりです。過去に囚われることなく、今の立場に相応しいお取り計らいをいただければ幸いです」
再び視線を上げると、伯爵の顔にはすでに十分な理解が浮かんでいた。怯えを隠そうとするでもなく、過剰な言い訳もなく、ただ謝意と意志を示す返答は、彼なりに誠実な選択だったのかもしれない。それは懸命な判断だった。少なくとも、今はまだ。
◇
夕刻の外務省前には、日中の慌ただしさが嘘のように静かな空気が漂っていた。政務の余韻をその身に残したまま庁舎を出たテオバルトは、控えめな気配を察して足を止める。
「失礼いたします。シュルテンハイム侯爵閣下」
門のそばに控えてきた男が一歩前へ出てくる。その顔に一瞬、記憶の断片が重なった。即座に名が出るほどの関係ではないものの、思い当たる節はあった。——ベルモント子爵。こうした立場の人間がわざわざ訪れる理由は限られる。昼に放った一言が思いのほか早く波紋を生んだということだろう。
「……失礼、どちら様でしたか?」
あえてそう尋ねると、べルモント子爵を名乗った男は深く頭を下げる。
「……この度は誠に申し訳ございません。まさか娘が、その……余計なことを申し上げていたとは露知らず……」
言葉を選ぶように何度も口をつぐみながら、それでも言わねばという気迫だけは伝わってくる。周囲に人目があることも承知しているのだろう、声量を抑えながらも常とは違う、わずかに乾いた声色。
立ち位置も、言葉の間も、控えめというよりどこか縋るようで、すでにこの場に至るまでに彼なりの逡巡があったことが伺えた。
娘には決して悪意があったわけではない、場の空気も読まずに思ったままを言ってしまう未熟さを、どうか大目に見てほしいと。
真摯に謝ることしかできないという姿勢は、計算を越えて、素直に伝わってくるものだった。
「ご足労いただいたようで恐縮です。ご令嬢は何かを意図していたわけではないと承知しております」
娘の件は既に付き添いの侍女から報告を受けている。誰かを貶めるでもなくただ何も考えていないが故の発言であるなら、少なくとも今は静観で構わない。
例えまた同じようなことを口にしたとしても、空気が追随を許さなければ波は立たない。実際、あの場で彼女の言葉に乗る者はいなかった。
つまり必要なのは、彼女を黙らせることではなく、周囲に正しい距離を測らせておくこと。既にそれは果たされつつある。
彼女の軽やかな声が今後もただ場に流されるだけのものとして扱われる限り、それでいい。こちらが注ぐべき視線は、より深く、より静かな悪意に向けるべきだった。
「……寛大なご対応、痛み入ります。娘には、厳しく申し聞かせておきますので……」
そう頭を下げた子爵に、軽く頷きだけ返す。これ以上のやり取りは双方にとって無意味だった。
背を向けたあと、振り返ることはない。どれほど低く下げられた頭も、どれほど殊勝な声音も、意識に残ることはなかった。言うべきことはすでに伝えた。自分にとってこの一件は、それ以上時間を割くに値しない。
ただ、足を運ぶ途中、わずかに目元をかすめた疲労の影を自覚する。繰り返す牽制が無駄ではないとわかっていても、それが心地よいものではないこともまた事実だった。
しかしこうした牽制が通じるのも侯爵や外務卿という肩書きがあるからだと思えば、やはりあの選択に間違いはなかった。はじめから、そのためだけに手に入れたものだ。
迎えの馬車に乗り込む直前、ふと胸をかすめる気配がある。白金に光を帯びる髪、透き通るような青灰色の瞳。自分の名を呼ぶ、どこまでも柔らかな声。
思い浮かべるまでもなく記憶に焼きついて離れないその姿に、これ以上の陰りが滲むことのないようにと、無意識に願っていた。




