第八十七話 今はただ、波紋の中に立ちながら
「でも、特別なご婚約が許されたのも、本物の愛があるからこそですものね! 本当に素敵……! 皆さま、口にはなさらないだけで、きっとそう思っていらっしゃるんでしょう?」
「ね?」とレティシアは同意を求めるように周囲へ目を向けるが、誰も反応を示さない。内心どうであれ、それをこの場で素直に口にできるのは彼女くらいのものだ。
どうして全員が黙り込み、視線を逸らすのか。不思議だと言わんばかりにその視線が自分の元へ戻ってきた時、オフィーリアは言葉を選びながら口を開いた。肯定も否定もせず、ただ話題を手放すことで、この場の温度を戻すために。それがこの場所に居続けるために求められる振る舞いだだと、もう理解していた。
「そのように思っていただけるのは光栄ですけれど……きっと皆様、それぞれのお立場でお考えもあったでしょうし。今はもう、過ぎた夜のことですから」
「ええ、そうね。今はお茶を楽しむ時間ですもの」
オフィーリアの言葉にオルガが滑らかに言葉を添え、卓を囲む貴婦人たちが声を出さぬまま同意する。暗黙の了解の元に話題はそっと終わらせられ、その無言の呼吸の輪の中に入れないレティシアだけがきょとんとしていた。
皆が彼女を咎めないのは、その言葉に他意がないと知っているからだ。思ったことをそのまま口にして、誰かを傷つけるつもりもなく、見下す気配もない。ただ心の底から、素敵な物語への憧れを述べるだけ。それが滑稽に映ることはあっても、誰の敵にも成り得ない。だからレティシアは爪弾きにされることなく、今日もこうして、この席にいる。
「……そういえば、例の孤児院の支援が打ち切られたそうですの。ご存知かしら?」
「ええ、噂には聞いておりましたわ」
控えめな声音と共に差し出されたその話題に、オフィーリアは周囲の空気が冷たく沈むのを感じた。
かつて一度だけ慰問したあの孤児院。緊張した面持ちの子供達と、そっと触れた小さな手の温もりが、今も鮮明に記憶に残っている。
「今はもう、それどころではないのでしょうね。だって——」
語尾を曖昧にしたその言葉の続きを誰も求めない。あの夜の顛末がどのようなものだったか、語らなくても誰もが知っている。
誰もが黙したのは、公爵の名ばかりではない。あの言葉が、誰の意図によって導かれたものだったのかも——語られることは、きっとないだろう。
あれからまもなくグローズベルグ公爵は体調を理由に宮内卿を辞し、爵位は家の都合として弟へ譲られたとされていた。
通常なら息子へ継がれるはずの爵位がそうならなかったというだけで、それがいかに重大なことだったかがわかる。あれは家門の刷新という名を借りた、大公の明確な意思表示——静かな制裁だった。
そして、こうした決定の余波が最も大きく響くのは、いつだって社会の下層にいる、声の小さな者たち。そしてその波の起点となったのが、紛れもなく自分の足元だったという認識が、どうしようもない息苦しさとなって胸の内に広がっていく。
あの孤児院を支えていたのがグローズベルグ公爵家の一族だったことは、慰問の際に把握していた。その支援が失われる日がこんな形で訪れるとは、思っていなかった。
茶会の笑い声が遠のいていく。けれど表情は崩さない。笑みを取り繕うことはこの場で求められる技術であり、それを身につけた今の自分は、もう以前の自分とは違うのかもしれない。
かつて何も持たず、ただ与えられるのを待つことしかできなかった日の記憶が、少しずつ遠ざかっていく。その距離が、どこか酷く恐ろしかった。
貴族になりたいわけではない。その言葉に偽りはなかった。けれど結果として、自らの選択が誰かの手から必要なものを奪ってしまったのだとしたら——その重みを、今、初めて、全身で感じていた。
◇
王宮の回廊に立ち込める空気は、午前の政務の名残を留めるようにひどく静かだった。すれ違う者もなく、偶然としては出来すぎたような空間の中で、ちょうど曲がり角の先から姿を見せた男の顔を見たとき、テオバルトはごく自然な足取りのまま歩を緩めた。
こちらに気付いたシェーンベルグ伯爵が軽く会釈を向ける。財務省付きの高官としては礼儀をわきまえた動作だったが、挨拶以上の言葉を交わす間柄ではない。
「これはシェーンベルグ卿。こんな折にお会いできるとは思いませんでした」
だからこそテオバルトが伯爵の前で足を止め、笑み混じりにそう声を掛けた瞬間、彼の顔にわずかな動揺が走ったのは当然と言えた。
逃げ場のない中、会話に応じるしかない伯爵の顔は既にわずかな強張りを見せている。その表情の変化を注意深く伺いながら、テオバルトは表向き穏やかな笑みを口元に乗せた。
「先日の予算折衝の件、いくらか風向きが変わったようですね。財務省の皆さまもご苦労が絶えないことでしょう」
「……外務卿のお耳にも入っておりましたか。ええ、内でも何かと対応に追われております。なかなか、落ち着きませんな」
見えすいた前置きだと気付いているだろう、伯爵の返答は極めて無難なものだった。
しかし「実は」とテオバルトが切り出した瞬間、伯爵の喉が一度だけ上下する。あの夜会の直後だ、怯えるのも無理はない。どれほどの立場にあっても、軽率な発言がどんな結果を招くかは記憶に新しい。
わずかな沈黙ののち、口元の笑みをそのままに、視線だけが鋭く細まる。そこに込められた熱を悟らせぬよう、声はあくまで穏やかに保ったまま、言葉が静かに落とされた。
「先日の茶会で、奥方が私の婚約者の席に楽譜をご用意されたと伺いました。どのような意図であったか私の理解が及ばず、こちらとしても困惑しております」
口を挟む隙のない抑揚でそう告げると、伯爵は目を瞬かせたまま固まった。おそらく何を言っても釈明にならないことは悟っているだろう。返答を探す間にも伯爵の視線は定まらず、拭えぬ緊張が顔全体を覆っていた。
追い詰めるつもりはない。ただ、これ以上のことが起きないよう、明確に一線を引いておく必要があった。彼女が無用な憶測に晒されず、ただ在るべき場所で、在るべきように振る舞えるように。そのために生まれる小さな波紋など、取るに足らないことだった。




