第八十六話 歌はまだ遠く、夏の陽は静かに鋭く
あの夜会から、季節がゆるやかに歩を進めた。
昼の光が少しだけ強くなり、街路の石畳に落ちる影も細く鋭さを帯びるようになってきた頃——夏の気配が、静かに日々を包みはじめていた。
初夏の夜会からいくばくかの時を経て、陽射しはさらに鋭さを増していた。けれど風はまだ薔薇の香りをさらって過ぎていくほどに軽やかで、真夏の気配が庭の緑にほんのり混じり始めたころだった。
石畳に囲まれた庭園の一角、天蓋付きのテーブルに案内されると、白磁の皿と繊細な茶器のあいだに、一枚の楽譜が置かれているのが目に入った。この季節にそぐわぬ、春の歌。
紙が風に煽られぬよう、ご丁寧に小さな硝子細工がそっと重ねられていた。オフィーリアは楽譜を一瞥しつつ、席に着く。
「まあ、そんなところに楽譜だなんて。誰が置いたのかしら」
向かいの席から、本日の主催である伯爵夫人オルガ・シェーンベルグが微笑とともに声をかけてくる。優雅な口調の内に、かすかな興味と計算された他意を滲ませながら。
「オフィーリア様はお歌がお得意なのでしょう? せっかくですし、一曲お願いしてもよろしいかしら」
オルガの左右に座る貴婦人たちが、息を合わせたようにわずかに笑みを交わした。視線の熱に込められた期待が、歌声を聴きたいという素直な好奇心とは異なるものだというのは明らかだった。
語尾をやわらかく飾っていても、勧める声には好意と呼ぶには軽い温度差がある。誰も声を荒げることなく、けれど応じなければ居心地の悪さだけが残る、そうした種類の誘導がそこにはあった。
とはいえ、場を濁すほどの敵意でもない。問いかけに集まる視線の熱は明らかに困惑という名の答えを求めている。どう応じるべきだろうと、オフィーリアは表情を崩さぬまま、その奥で静かに思案を巡らせつつ、口を開く。
「昔はそのように人前で歌うこともございましたが、今は、特別なときに、心から求めてくださる方のために、自然と口をついて出るものでありたいと——そう願っております」
言葉を選びながら、穏やかに返答する。オルガの表情は崩れなかった。けれど、視線の奥に一瞬だけ揺らぎが走った気がした。
「本日は、貴族の一人としてお招きいただいた席です。どうかその立場で、お時間を共にさせていただけると幸いです」
「まあ、そうでしたの。てっきり、昔から誰の願いにも応えていらしたのかと思っておりましたわ。……お上手な方というのは、どんな場でも軽やかに披露なさるものかと」
「誰かのために歌いたいと思えることは、私にとって何より幸せなことです。でも、それが〝どんな場でも〟である必要はないと、今は思っております」
そこで初めて、軽く指先を伸ばして楽譜に触れ、紙の感触を確かめる。きめ細かな質感と、折り目ひとつない真新しさ。読み手の手に渡ることを前提にしていないそれは、ただ置かれるために用意されたものだとわかる。
譜面に並ぶ音符を目で追うだけで、旋律は静かに胸の奥で鳴り始める。芽吹きの匂いを含んだ風、朝靄に濡れた花のつぼみ、春のひかりを集めたような、あたたかな音。ほんの一瞬、目を伏せたまま、その柔らかな記憶に耳を澄ませた。
けれど音を結ぶ感覚は、今もどこか遠い場所にあるまま。胸の内には確かに旋律があっても、それが喉元を越えることはなかった。
もう二度と歌えないのかもしれない。そう思うたびに、心の奥にわずかな痛みが生まれる。それでも、かつてのように自らを責めることはなくなった。ただ静かに、その事実と共に在ることを覚えたのだと思う。
顔を上げ、再びオルガへと視線を向ける。揺らぎを見せぬように、微笑とともに、あたたかな調子で言葉を継いだ。
「それに、これは春の歌ですもの。お選びになった方の趣がよほどお優しいのでしょう。春を恋しむお気持ちが、今の陽気にも勝ってしまったのかもしれませんね」
「まあ……」
小さく笑ったオルガが、ティースプーンをひとつ、ソーサーに戻す。銀と磁器が奏でる静かな音色が庭の風に溶けていく。
「さすが、耳の良い方は仰ることも洒落ていらっしゃるのね。春を恋しむ心が読み取られてしまうなんて——私、少し恥ずかしくなってしまいそうだわ」
言葉の端に淡く意図を滲ませながらも、夫人の笑顔は崩れない。張り詰めた糸がひとつ撓んだだけで、周囲の貴婦人たちは何事もなかったように話題を切り替えた。
そうして何もなかったかのように、茶会は穏やかに幕を開ける。
紅茶や菓子と共に交わされる話題は贈答用の香水から帽子の飾り羽根まで多岐にわたり、言葉の端々に流行の名残や社交界の小さな風向きが漂っていた。
かつての自分なら、耳慣れぬ名詞の羅列に取り残されていたかもしれない。けれど今は、話題の流れを読み取る余裕がある。
求められる返しに即座に応じられるわけではない。それでも、一拍置いてから柔らかく話を受け止めるだけの語彙と距離感を持てるようになったのは、幾度となくこの場に身を置いてきた証でもある。
その時「そういえば!」と明るい声を上げたのはベルモント子爵令嬢レティシアだった。
胸元でぱちんと手を合わせ、その瞳がぱっと輝きを宿し、オフィーリアの方をまっすぐに見つめた瞬間——嫌な予感が背筋を這った。
「あの夜会で、テオバルト様はほんの少しもオフィーリア様のそばを離れなかったというのは本当ですか? まるで絵物語の騎士と姫君みたいだったと聞きましたわ!」
明るい声が弾む。誰かがカップを置く音がして、ほんの一瞬だけ空気の密度が変わったのを感じた。語られなかったはずの夜会の話題が、無邪気な言葉によってあっさりと場の中心に据えられてしまう。
その発言が悪意によるものでないことは、これまで何度か彼女と顔を合わせてみてよくわかっている。
レティシアは本当に、心からそう思っているのだ。誰かを傷つけようとして話すのではない。ただ、自分の感情と想像とを惜しみなく口にするだけ。
あの夜会の後、彼女と顔を合わせるのはこれが初めて。だから——この展開は避けられないものだった。
その夜会の話を誰も口にしないのには理由がある。
語るにはあまりに政治的で、黙するにはあまりに劇的だった。だからこそ、貴族たちはあの日の出来事を、それぞれの沈黙の中にしまい込んでいる。
それが礼儀であり、知性であり、つまりは保身だった。……けれどそれでも無邪気な声は、その沈黙をあっさりと壊してしまうのだ。




