第八十五話 囁く余情、澄める気韻
馬車の中は静かだった。窓の外を流れる街灯の光が柔らかく頬を照らし、夜の帳が深まるほどに、今宵の余韻が身体の奥へと染み渡っていく。
緊張から解放された体には、達成感と充実感が心地良い疲労と共に満ちていた。胸の内側がまだふわりと高鳴り、肩には小さな疲労が宿っていて、それすらも心地よく感じるのは、ひとえに今夜を無事に終えられた安堵の証だろう。
大公ハインリヒが去った後も夜会は滞りなく進行した。表向きには和やかな空気が流れ、誰も一人としてフィーリアを平民呼ばわりする者はなかった。内心がどうであれ、大公の影響力の前には誰もが慎重にならざるを得なかったのだ。
馬車がわずかに強く揺れた拍子に、隣からあたたかな気配が寄せられてきた。視線を向けずともわかる。いつも誠実な距離を保つはずの人がそっと身を傾けてきたことに、驚きより先に胸の奥が静かな喜びで満たされていく。
肩先が重なるその距離を自然なものとして受け入れている時間に、密やかな幸福が灯った。
「……今夜のあなたは本当に立派でした。どんな言葉にも、態度にも、完璧に応えてくださった。正直、あれほど堂々と乗り越えられるとは——私の予想を遥かに超えていました」
落ち着いた声音がそっと耳に落ちてくる。遠慮のない賞賛には照れくさささえ滲ませながらも、それでも尚、彼らしい率直さと温かみを添えていた。
「そう言っていただけたなら、精一杯の準備が報われました。それもテオバルト様がおそばにいてくださったからこそです」
そう答えながら、自然に手が膝の上で揃う。その指先に、思いがけない温もりが落ちた。テオバルトの手が、そっと自分の手に重ねられている。強く握るわけではなく、ただそこに在るだけの存在感。それだけで安堵とも幸福ともつかない感情が、静かに胸の奥に波紋を広げていく。
しかし——その波紋の中心には、どうしても消えない一滴がある。言葉にすれば壊れてしまいそうな静けさを壊さないように、けれどどうしても、尋ねずにはいられなかった。
「……ひとつ、気になっていることがあります。あれは、テオバルト様の思惑通りだったのでしょうか?」
馬車の揺れがまたひとつ、足元を撫でる。
即答がないことは予期していた。非難の意図はない。ただ、もしそこに何かしらの計算があったのなら、彼の選んだ道筋を少しでも理解したいという願いがあるだけ。誰にも知られずに裏で整えられた舞台。少なくとも自分も、そこに立つ一人だったはずだ。
「どう受け取るかは、あなた次第です」
返ってきた声は柔らかく、含みの余韻を宿していた。
ふと目を向けると、テオバルトの瞳には一瞬の驚きが走り、それを静かな沈黙で包み込もうとする様子が見て取れた。
口元にはごく浅い微笑が浮かぶも、それは感情というより、言葉に代えた静かな応答のようだった。
真剣さを湛えた眼差しが、じっとオフィーリアを見つめている。それが彼なりの返答なのかもしれない。慎重に整えられたその佇まいの裏で、彼が何を思っているのか——その重さは、あの場で起きたことと同じだけの意味を帯びていた。
「公爵閣下の失言を、あえて引き出されたのではないかと思っています」
確信に近いものが胸の内で鼓動を打っていた。
欲したのは答えそのものではなく、あの瞬間に抱いた違和感の正体を確かめること。曖昧なまま終わらせるには、あまりにも大きな影を落としていた。
もしあれが場当たり的な幸運でなかったのなら、自分の目が何を見落としていたのかを知りたかった。
「結果として、そうなったのは事実です。綺麗なやり方ではなかったかもしれませんが——」
口元に浮かんだのは、静かで、どこか満ち足りたような笑み。
「あの方法が最も確実でした」
簡潔に紡がれた言葉の中に、幾重もの選択と覚悟の重みが助けて見えた。術策と駆け引きが交錯するあの場で、誰よりも冷静さを保ち続けた背中が思い起こされる。
舞台の中央にいながらも、孤独に思案を重ねていた時間が、あの凜とした佇まいを支えていたのかもしれない。
「私は、あなたが思うほど善人ではないかもしれない。……それでも、失望されませんか?」
短い沈黙は選んだ言葉を自分に許すための間のようで、届いた声には僅かに滲んだ硬さがあった。
初めてテオバルトの声に、わずかなためらいが混ざった。問いかけるような、探るような響き。揺れ動いたのは声音だけではない。今にも消え去りそうな静寂のなかで、その言葉だけがくっきりと残った。
「はい」
迷いはなかった。言葉は、意識するより先に口をついていた。
「もし次に同じようなことをなさるなら、その時は私にも教えてください」
公爵を退けた判断に異論はない。あの場でそう決断したのなら、それは自分たちにとって必要な選択だったのだろう。
けれど、それはあくまで私情であり、誰もが認める正義ではなかった。一人の貴族の生涯を変え、その家門に深い影を落とすほどの決断だった。
そこに至るまでに、彼も何かを感じ、抱え込んだはずだ。だからこそ、その重さから目を背けるのは、あまりにも不誠実だと思えた。
同じ場所にいて、隣で同じ景色を見ていたはずなのに、その思惑にも、伴う痛みにも触れられなかった。すべてが終わった今になって、問いかけることでしか知り得なかった事実が、胸の奥に、小さな痛みを残していた。
告げたあと、テオバルトが息を呑んだような気配がした。気のせいかもしれない、けれどその静かな驚きが自分の言葉の重さを反射させるようで、ほんの少しだけ息を整える。
「私も、あなたと共に闘えるようになりたいのです」
長い沈黙が訪れた。馬車の揺れが細やかに車体を揺らす音が、どこか遠い世界のもののように感じられる。その間、隣に在る彼の気配がほんのわずかに揺れていた。
即答を期待していたわけではない。それでも、その沈黙の向こうに確かに何かが動いている予感がして——投げかけた言葉が軽んじられることはないと、信じるに足る何かがそこにはあった。
「……いずれ、そのような日が来るのであれば。その時には、きっと」
それが、彼なりの精一杯の承認であることは明らかで。願いを真摯に受け止めた上で、尚も慎重に、静かに応えたその音色は、どんな華美な誓いの言葉より誠実さを帯びていた。
重ねられたままの手。指先がそっと力を宿す。触れ合う温もりが境界を溶かしていくたび、体温までもが静かに溶け合っていくような感覚に包まれた。
夜はまだ深く、行く先は遠い。それでも、ここに共に在るという事実だけが、どんな言葉よりも確かな真実。誰かのために誰かと共に立つということの意味を、オフィーリアは今、静かに理解し始めていた。
第二部【完】




