第八十四話 織る声音、明ける余韻
「まさか——嬉しいよ、ハインツ」
その言葉がこの落ちた瞬間、思わずオフィーリアは息を呑んだ。
テオバルトは、自分にも家族にも、常に敬意を忘れない人だ。礼を崩さず言葉を選び抜くその姿勢は、誠実な心の自然の表れのように思えた。
だからこそ、その一言がどれほど特別かがオフィーリアにも痛いほどわかった。礼儀を欠いているのではなく、最大限の信頼と敬意の表れ。テオバルトの口から親しげな愛称が自然と零れ落ちる様子は、二人の間にある確かな絆の証のようだった。
そして、その顔は社交の場で浮かべる礼儀正しい微笑みとも、自分に向ける優しい表情とも違う、飾り気のない素直な喜びが浮かんでいる。侯爵でも外務卿でもない、ただのテオバルトという青年が、今、目の前にいるようだった。
「その言葉を聞けただけで、来た甲斐があったな」
笑み返したハインリヒの声にどこか安堵めいた響きがあった。形式でも社交辞令でもないやりとりが、二人の間で自然に交わされていく。公式の場であれほど頑なだったテオバルトが今はただ、対等な関係の中で言葉を交わしている。
その眼差しが、不意にこちらへ向けられる。意識を引いた瞬間、軽やかな声音が響いた。
「オフィーリア嬢。こうして夜会の場で、改めてご挨拶ができて嬉しい。前にお会いした時よりも……ずっと、頼もしく見える」
柔らかな微笑と共に紡がれたその言葉に、咄嗟に何と返せばいいのかはわからなかった。輝くような黄金の髪の下で、蒼い瞳が穏やかにこちらを見つめている。
差し出された言葉に形式ばった気取りはなく、かといって馴れ馴れしさもない。堂々とした立ち姿と響きすぎない静かな声は、不思議な調和を見せていた。
自然な調子で言葉をかけられたことに一瞬の戸惑いを覚えながらも、オフィーリアの顔には自然と微笑みが浮かんだ。その言葉が一対一の敬意として差し出されたものであると、確かに感じられたからかもしれない。
「こちらこそ、お越しいただけて光栄です。こうしてご挨拶できることが少し不思議な気もしますが……とても嬉しいです」
声にほんの少しの緊張を滲ませながらも、テオバルトの大切な友人への敬意を込めて。
その言葉に、ハインリヒの口元がふと緩んだ。誇張も装いもない自然な笑みだったが、そのわずかな変化に込められた温度は確かだった。強い光を放つ蒼の瞳が、ほんの一瞬だけやわらいだ気がして、オフィーリアは胸の奥でそっと息を吐く。
「先程の言葉と態度は期待以上だった。愛と敬意を同時に抱ける相手と出会える者は、そう多くない。きみたちは稀有なものを手にしたのだと思う」
それは友人としての祝福とも、大公としての見極めとも、どちらとも取れるような気がした。
一瞬、その言葉の重みに息が詰まりそうになったが、それでも、今ここにいる自分たちを肯定してくれていることに変わりはない。
「どうかこれからも、テオのそばにいてやってほしい」
ハインリヒがその呼び名を口にした時、隣に立つテオバルトの肩がわずかに動いたのが見えた。一瞬、何かを堪えるように外される視線。——子供時代の愛称で呼ばれるのは少し照れくさいのだと、以前、何気ない会話の中でこぼしていたことがある。
けれどそこに込められた親しみをわかっているからこそ咎めることもせず、ただその場をやり過ごそうとしている。そんな仕草が、妙に愛しく思えた。
これまでテオバルトのそばにいて、いろいろな表情を見てきたつもりだった。でもきっと、まだ知らない顔がある。
これからもこうして、少しずつ彼の新しい一面を知っていくのだろうと思うと、胸の奥にふわりとした熱が灯るようだった。
「はい」と、自然と声が口をつく。
「テオバルト様の隣に立つために学ぶべきことがあるなら、変わらなければならないなら、その努力は惜しみません」
口にした瞬間、その言葉が自分の中にしっかりと根を下ろしていることを知った。それは自分自身への誓いでもあり、この場に集う人々への宣言でもあった。
誰かに聞かせるためではない、誰に認められるためでもない。ただ、自分自身が選んだ未来に向けて、心からそう在りたいと願っている。
その思いを改めて確かめるように、オフィーリアはゆっくりとテオバルトへ目を向けた。向けられた視線に応えるように、テオバルトの瞳がまっすぐに返ってくる。
琥珀の奥に宿る光は静かで、どこまでも澄んでいた。少しだけ目を細めたその表情には、誇らしさと、慈しみと、言葉にしきれない想いが織り交ざっているように見える。
「その覚悟に応えられるよう、私も努めましょう。リア」
名前を呼ぶ声音は柔らかく、けれど確かに芯を持っていた。場の喧騒が遠のいていくような一瞬の静けさの中で、その言葉だけが胸の奥にすっと届いてくる。
ハインリヒの視線がふたたびこちらへと向けられる。余計な言葉を挟まず、ただ静かに、二人を見つめている。その口元に浮かんだごくわずかな笑みを、オフィーリアは確かに捉えた。
「——さて、私はこれで失礼する。あまり長居しすぎると、ただの友人ではいられなくなりそうだ」
声に冗談めいた響きはあったが、その言葉に込められた意図をオフィーリアはなんとなく察した気がした。大公の振る舞いがいかに私的なものであっても、それを額面通りに受け取る者ばかりではない。
ハインリヒの去り際、視線がほんの一瞬だけ交差した。テオバルトは何も言わなかったが、その目に浮かんだ柔らかな光が無言の返礼のようだった。
二人のやりとりは形式も立場も越えた、確かな絆のように思える。
その瞬間、ふと昔の面影が脳裏を掠めた。慣れない宮廷生活の中でいつもそばにあった、静かな灰色の瞳。その眼差しが自分を見守っていた日々は、もうずっと遠くのものになった気がする。
ふと息を吐いた時、控えていたベルナが一歩前に出てくる気配に気づき、思考が自然と現在へと引き戻される。
「奥様、よろしければこちらをどうぞ。白葡萄の果実水でございます」
静かに差し出されたグラスの中、淡い黄金色が落ちる光をやわらかく弾いていた。ほのかに冷たさを残したそれを手に取りながら、オフィーリアは自然と表情を緩める。
「ありがとう、ベルナ」
ほんの少し、肩の力が抜けた気がした。グラスを持つ指先に、今になってようやく自分の体温が戻ってくる。
果実水は微かに甘く、やわらかな酸味が静かに舌に広がる。喉を通り抜けるその冷たさは、舞台を降りたばかりの高鳴りをそっと冷ましてくれるようでもあった。
張り詰めていたものがようやく緩んでいく中で、ふと視線が自然と広間をめぐる。
すでに招待客たちはそれぞれの談笑に戻りつつある。まるでほんの少し前の騒ぎなど、最初からなかったかのように。——けれどその中心にいた身には、今もなお微かな余韻が残っていた。
グローズベルグ公爵の立場が揺らいだこと。そして、ラウレンティア大公が自ら姿を現し、直々に言葉を交わしたこと。それはこの場だけでなく、これからの自分たちの立場をより確かなものへと変えていくはずだった。
きっとこの先も、自分の足で、この人の隣を歩んでいける。その確信だけが今、オフィーリアの心を満たしていた。




