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第八十三話 誇りの在処、祝福の静寂

「——私は、貴族になりたいわけではありません。ただ、テオバルト様と共に生きていくと決めました」


 心のどこかで、自分はここに属する人間ではないと認識している。それは劣等感からでも、自分を卑下する気持ちからでもない、ただの事実。

 その違和感が消えることはないのかもしれない。けれど、それでも、この世界で生きることを選んだ。彼の妻として、胸を張って生きていけるようになりたい——そう決めた時から自分の進む道は定まっていた。

 ただ傍にいるだけでは足りない。彼が背負うものを知り、それを共に担う覚悟を持たなければならない。その覚悟は、思っていた以上に重く、けれど同じだけ愛おしくもあった。

 心臓の鼓動が少し速くなる。けれど怖くはない。選び取った場所で、選び取った人の隣にいるのだから。


「平民として生まれたことも、これまで辿ってきた道のことも、私は恥じていません。そのすべてが私を形作り、私をここに立たせてくれました。どんな否定も、私の在り方を変えるものにはなりません」


 言葉を紡ぎ終えた瞬間、場の空気がわずかに揺れた気がした。声を荒げたわけでもない。誰かを責めたわけでもない。ただ静かに胸の内を語っただけ。それでも、自分の言葉が確かに広間に届いた手応えがあった。

 視線を上げれば、誰もが一様に沈黙していた。返ってくるはずの嘲笑も、皮肉も、どこにもなかった。

 どんな言葉を返せばよいのか、公爵自身が掴みかねているのかもしれない。わずかに口元が引きつり、杖を握る手が動いたように見えたが、結局、言葉にはならなかった。打つ手のない者がそれでも態度だけは崩すまいとする姿勢だけが、そこにあった。

 その静けさの中で、ひときわはっきり響く声があった。


「まあ、年の功を重ねたはずの方より、よほど落ち着いておられますわね。礼を知らぬのはどちらか、よくよく考えていただきたいものですわ」


 扇を軽く振りながらそう言ったのは、イザベラ・エルデンロート侯爵夫人だった。事前に聞いていた通り、社交界の顔役と呼ばれるだけの風格がある。

 年の頃は四十代半ばかそれよりやや若いかもしれないが、そうした数字では計れない気迫を纏っている。華美ではないが仕立ての良いドレスがその細い身体によく映えており、自然と視線を惹きつけるものがあった。

 しかしその顔に笑みは浮かべていても、扇の影から公爵に向ける眼差しは冷ややかだった。


 こちらの肩を持つような言葉に聞こえたが、どこまで本心なのか、すぐには測りかねた。オルデンベルグ侯爵夫妻のように味方なのか、それとも何か別の意図があるのか。

 確かめるように、オフィーリアはそっと隣のテオバルトを見上げた。


「イザベラ夫人の見る目は確かです。あなたがどう映ったか、今の言葉がすべてですよ」


 その声は他の誰にも届かないよう静かに落とされた。テオバルトの表情は変わらなかったが、目の奥くほんのわずかな柔らかさが差したように思えた。口元に浮かんだ淡い笑みがそれを裏付ける。

 他ならぬ彼が自分の言葉を正しいものとして受け止めてくれたなら、それで十分だった。


「閣下。そのような話題は、この場には相応しくありませんな」


 短く、低い声。マクミシリアンは公爵の方に視線を向けたが、それ以上の言葉は続けない。しかし、それでも十分すぎる重みがあった。

 公爵はただ手元の杖を握り直す。自身を取り巻く空気の変化にようやく気が付いたのか。広間を支配していた緊張は、いつの間にか別の静けさへと変わっていた。


「……勝ったつもりか、平民が」


 その声はもう、誰に届かせたいのかも分からない、自分自身に向けた嘲りのようだった。


「勝ち負けの話ではありません。——もっとも、そこにこだわっておられるのは閣下だけのようですが」


 公爵から視線を外し、テオバルトは隣に立つオフィーリアへとゆっくりと向き直った。その横顔には、すでにこのやり取りの結末を見届けた者の静けさがある。続く「行きましょう」という穏やかな声に、オフィーリアは小さく頷いた。

 その時、ふと広間の一角がざわつく気配があった。それをオフィーリアより早く察知したテオバルトの琥珀色の瞳が一瞬、何かを警戒するような鋭さを帯びて——そして驚きに見開かれた。


 ゆっくりとこちらへ歩んでくるのはラウレンティア大公、ハインリヒ・ランベルト・ヴェルトリックその人だった。その後ろにヘムルートの姿もある。オフィーリアは、そういえばしばらく彼の姿を見かけていなかったことを思い出した。

 一瞬にして空気が変わる。周囲の貴族たちも一様に会話をやめ、声を上げる者は誰もいない。視界の端でエルンストがわずかに身動ぎし、前に出ようとした気配を見せたが、ハインリヒは手の動きでやんわりとそれを制した。


「祝いの場と聞いていたが……どうやらずいぶんと趣向が違うようだな」


 声は穏やかでも、その言葉の向けられた先は明らかだった。グローズベルグ公爵は一瞬、身を強張らせる。

 公爵の前で足を止めたハインリヒは、ほんのわずかに顎を傾け、その視線を老公に預けるように落とした——そして、静かに口を開いた。


「貴公の演説、興味深く聞かせてもらった。続きがあるのなら後日、正式な場を設けよう」


 その響きに含まれた冷ややかさは、もはや反論の余地を一切与えない。公爵は何も答えなかった。ハインリヒは老公に一瞥だけを残し、続けてその視線を隣へ向けた。

 夜会の主催たるジークベルトとローゼマリーは迷いなく、家臣としての礼を取ろうとした。しかしハインリヒはそれさえ制する。


「どうか畏まらないでいただきたい」


 ハインリヒの表情に硬さはなく、声にも威圧はない。それでもその言葉には、誰にも否を挟ませないだけの確かな静けさが宿っている。

 そしてに蒼い瞳がようやくテオバルトのもとへ向けられて——言葉より早く、ハインリヒは目元を緩めた。


「友人として祝いの言葉を伝えに来た。それだけのつもりだったんだが、どうも思っていたより賑やかでね」


 ハインリヒの言葉には皮肉とも冗談ともつかない響きがあったが、そこに含まれた意図をこの場の誰もが察していたに違いない。

 その中でただ一人、テオバルトだけが穏やかに息を吐く。表情に大きな変化はなかったが、目元にはわずかに柔らかさが差す。


 彼がこの場に姿を現すことは、テオバルト自身も知らなかったのだろう。先ほどのわずかな驚きは、きっと素のものだった。

 けれど『友人として』という言葉に、すぐ何かを理解したようだった。


「……驚いた。まさか君が、こうして顔を出してくれるとは」

「迷惑だったか?」


 テオバルトは迷いなく首を横に振った。


「まさか——嬉しいよ、ハインツ」

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