第八十二話 歪む王冠、無垢なる瞳
宰相エルンストの沈黙を気に留めながらも、それ以上考えを巡らせる余裕はなかった。広間に響く公爵の杖の音が、先ほどよりも短く鋭くなり、苛立ちを隠そうともしない主の心情を如実に表していた。オフィーリアの耳に、その音が突き刺さるように届く。
「……なるほどな。貴族としての誇りを忘れ、平民どもと手を取り合う道を選んだ者ばかりというわけか。まったく、嘆かわしい!」
低く響く声が静寂を断ち切り、壁に反射してなお重く広間を圧迫する。その声に含まれる苛立ちと怒りが、まるで目に見える波紋のように広がっていくのを感じた。
公爵の言葉に同調していた者たちも、今や誰ひとりとして賛意を示さない。取り巻きの貴族たちの表情が硬くなり、互いに目配せする様子が見て取れた。彼らが公爵から少しずつ距離を置き始めていることに、オフィーリアは微かな希望を見出した。
その変化に公爵が気付いているかは定かでないまま、再び敵意の矛先はテオバルトに向けられる。まるで彼が諸悪の根源だとでも言うように。
「所詮は平民どもを儲けさせる愚策で叙爵された男よ。そんなものが誇らしいか? 成り上がりの侯爵様は、さぞかしその爵位が嬉しいことだろうな」
「身に余るお言葉です、閣下」
公爵の言葉には毒が滲み、その声音には露骨な侮蔑が込められていた。だが、オバルトの声は落ち着いたものだった。煽るでも反論するでもなく、ただ事実のみを受け止める冷ややかな響きを持っていた。
表面上の謙虚さの裏に隠された、鋭い刃のような皮肉。オフィーリアはその目に浮かぶ冷笑を見逃さなかった。
挑発に失敗した公爵の口元が僅かに歪む。杖を握る手の節々が白くなるほど力が入り、老いた体が怒りに震えているように見えた。
「ほう、それほど謙虚なつもりならば、平民を連れ歩くなどという真似は控えるべきだったな。せっかくの大したことのない功績も、そんなもののせいで色褪せるのではないか?」
「閣下、〝そんなもの〟とは、私の婚約者のことを指しておられるのですか?」
「あぁ、そうだとも」
テオバルトの声音、そのt奥には確かな怒りが滲んでいた。感情を露わにする公爵とは対照的に、冷静な言葉ほど鋭く突き刺さる。激情に任せる者と、一切の隙を見せず追い詰める者。その対比が、広間の空気をさらに張り詰めさせていた。
それでも公爵は引くことなく、苛立ちを募らせている。しかし、感情的な挑発にテオバルトが乗るはずもなかった。
この場での公爵の態度が、今後の貴族社会での彼の立場をどう揺るがすか、この場の誰もが察していることだろう。もしかすると、すべてがテオバルトの思惑通りに進んでいるのかもしれない。
だとしたら、公爵はすでに勝負を決している。
初めてこの場で公爵と向き合ったとき、確かに恐れがあった。貴族社会の頂点に立つ者が向けてくるあからさまな敵意。その一言が、自分の立場を容易く揺るがすかもしれないという現実も理解していた。
けれど今、胸の奥にあった緊張は、じわりと別のものに変わっていく。最初の畏怖の念が、静かな悟りへと形を変えていくのを感じた。
公爵が拒んでいるのは、平民という存在そのものではない。変わろうとする世界、揺らぎ始めた秩序、新たな風が運ぶ変化そのものなのだ。どれほど理を尽くしても、敬意を込めて言葉を選んでも、届くことはない。
表情には出すまいと努めていたつもりだったが、公爵の言葉に胸の奥で何かが波立ったのを、自分でも完全には抑えきれなかった。わずかに動いた眉の端、逸らしきれなかった視線の色、それだけで十分だったのだろう。
「——何か言いたいことがあるのか? 平民の小娘が」
公爵の鋭い眼光が、オフィーリアをまっすぐに射抜く。しかし、そこに込められた威圧にも心が揺らぐことはなかった。
すべての視線が自分に集まる気配を感じながら、オフィーリアもまた公爵を見据えていた。
「……功績とは、人が評価を下すものではなく、積み重ねた事実そのものだと私は思います」
何を言おうか考えるまでもなかった。気づけば、その言葉が口をついて出ていた。
「北方交易路の開拓によって、ラウレンティアには新たな物資と人の流れが生まれました。交易の拠点としての価値が高まり、経済の活性化がこの国の安定を支えていることは、誰の目にも明らかのはずです」
交易路の構想を実現するまでに、何が障壁となり、どこでどれほどの交渉が必要だったのか。そうした話を語るテオバルトは楽しそうで、時には誇らしげに笑うことさえある。けれど、それがどれほど大きな功績だったのかを、自ら語ることはない。誇らないというより、意図的に触れずにいるようにも思える。ただの謙遜とは、どこか違う気がした。
彼は称賛を求めていないのかもしれない。ただ、求められたことを成しただけ。父の構想を形にしただけ。そうした姿勢が、今もわずかに違和感として残っている。
実際の交渉の場に立ち会ったわけではない。だが、断片的に知る過程の複雑さや、ほんの一言に込められた彼の思慮に触れるたび、これを成し遂げることが、どれだけ困難な歩みだったか——その過程を直接見ていたわけではない。けれど、その労の重みは、今の自分にも想像できる。
だからこそ、思う。
「閣下が成し遂げられたことは、この国の歴史に刻まれるべき功績です。——私のような者の存在ひとつで色褪せることはありません」
オフィーリアの言葉が広間に落ちると、公爵の顔が険しく歪んだ。深く刻まれた皺がさらに寄り、視線の奥に苛立ちが滲む。
ふと肩に感じる温かな手のひらに気付き、オフィーリアは思わずテオバルトの顔を見上げる。穏やかな表情がの中に、微かに浮かんだ笑みがどこか誇らしげに見えた。
「感情に流されず、理をもって語る姿は、我々も見習うべきものかもしれませんね」
その穏やかな言葉に、胸の奥に温かさが広がる。テオバルトの声は、以前の冷ややかなものとは違って、どこか優しさを含んでいた。
公爵は低く鼻を鳴らし、杖を握る手がわずかに震えた。彼の怒りが、さらに抑えきれないことが見て取れた。
「貴族の誇りとは、生まれ持つものだ。血統と伝統によって証明されるものだ。それを知らぬ者が、何を偉そうに—— お前がどれほど着飾り、どれほど礼儀作法を身につけようと、所詮は平民。貴族になれるなどと思い上がるな!」
公爵の言葉には確かに力があった。それは彼が生涯をかけて信じ続けてきた価値観だからだろう。
怒りに満ちた顔には血の気が集まり、浮き出た血管が脈打っている。そこには尚も威圧の色が滲むが、それに怯える自分はもうどこにもいなかった。
「私は——」




