第八十一話 古き誇り、崩れる壁
「貴族とはなんだ? 血統だ! 誇りだ! その証を持たぬ者が、この場に足を踏み入れること自体が冒涜であることが、どうしてわからぬ!」
公爵の杖が床を強く打たれる音が広間に響いた。その鋭い音に、オフィーリアは思わず息を呑む。公爵の声には隠しきれない苛立ちが滲み、広間の空気が重く、張り詰めていくのを肌で感じた。
取り巻きの一人が「閣下、それ以上は」と控えめに声を掛けたが、それすら煩わしげに、公爵は杖の先端をさらに強く床に打ち付けた。その金具の先が大理石の床を傷つけるのではないかと思うほどの勢いで、老いた指が杖を握りしめている。
遠巻きにこちらの様子を注視したいる貴族たちが、わずかに視線を交わす。これまではどこか余裕をもって傍観していた者たちの表情に、微細な変化が生じているのがオフィーリアにも見て取れた。
もしかすると、この場にいる貴族の誰もが、公爵の主張をそのまま受け入れているわけではないのかもしれない。
貴族としての誇りを守ろうとする信念そのものは理解できる。貴族社会のあり方を問うこと自体は珍しくないはずなのに、ここでの公爵の言葉はあまりに過激で、共感を得るのは難しいように思う。
「閣下ほどの方が、こうも感情に任せるとは意外です。あまり強い言葉を使われると、思わぬ誤解を招くかもしれませんよ」
テオバルトの声は静かだったが、その眼差しはまるで冬の湖のように澄み切り、一片の情も感じさせなかった。
公爵の言葉を受けてもなお微動だにしないその視線には、もはや呆れにも似た冷ややかささえ浮かんでいるように見える。
きっとそれは公爵にも伝わったのだろう。彼は再び何か言いかけたが、それを遮るまた別の声があった。
「公爵閣下」
テオバルトによく似た、低く抑えられた声はジークベルトのものだった。先程から様子を伺っていたジークベルトはローゼマリーを伴い、テオバルトの隣に立つ。
「ここは夜会の場です。こうした席では、言葉選びもまた重要かと存じます」
ジークベルトの言葉は穏やかだったが、それさえ今は公爵の神経を逆撫でするだけなのかもしれない。オフィーリアは公爵の表情を窺い、そこに浮かぶ怒りの色を見て取った。
「お前も新派などを娶りおって……。血統を守る気もなく、新派とやらに迎合するとは、まったく情けない限りだ」
公爵が握る杖の先が僅かに床を滑り、その声の端に震えが混じる。怒りを抑え込もうとしているのか、それとも逆に勢いづいているのか。かつての名門が衰退していく現状に対する憤りが、その声音に潜んでいる。
「私は確かに新派の令嬢を伴侶に迎えましたが、それは今後の貴族社会のあり方を見据えた、当主としての決断です」
ジークベルトの声もまた冷静さを保っていたが、オフィーリアには彼の目元に浮かぶわずかな緊張が見えた。一閃の刃のような鋭さが彼の声にこもり、公爵の批判を真っ向から受け止めている。
「貴様までそんなことを言うのか! 貴族の名は、血統と伝統の上に成り立つもの。それをないがしろにし、新派のような連中に居場所を与えることが貴族社会のためになるとでも? 浅はかだな、ジークベルト。貴族の本質を見誤るとは実に情けない。それとも貴様も、新派の手先として動くつもりか? その女もそうだ——」
杖を握る公爵の手が、さらに強くなるのを見た。そして怒りの矛先は、ローゼマリーへと向けられる。
「貴族の名を背負う者ならば、己の身の程をわきまえ、旧き秩序に従うべきだったはずだ。それすら理解せず、新派とやらの理念にかぶれ、自らの居場所を誤るとは——実に嘆かわしい!」
公爵の眼光がローゼマリーを見据えた。目尻の深い皺が強く寄り、細められた瞳に冷たい光が宿る。
それは先程までテオバルトに向けられていたものより苛烈に見えたが、ローゼマリーは臆することもなく平然とそこに立っている。まるでこうした批判を受けるのが初めてではないかのように、表情には一辺の動揺も見られない。
二人の婚約が個人の感情や好みに基づくものではないことは分かっていた。けれど、少なくともローゼマリーは自分の立場を受け入れ、その上で最善を尽くしている。
そんな彼女を貶められることにオフィーリアは胸の内で怒りを覚えた。しかしその感情を表に出すことはせず、静かに場の成り行きを見守る。ここで発言するべき人間は自分ではないのだ。
「彼女は己の役目を果たしております。公爵閣下がどうお考えかは存じませんが、私の伴侶に対する侮辱は看過できません。ご不満があるのであれば改めて私が直接お話を伺います。しかし、公の場でそのような言葉を向けられる謂れはないはずです。どうか今はお納めください」
ジークベルトの言葉には迷いがない。議論のためではなく、当主としての責務をまっとうするためのもの。
それはテオバルトのように巧みに駆け引きをこなすものとはまた違う強さを秘めている。
反論を許さない確固たる声音に、オフィーリアは静かな感銘を覚えた。
「——新派など貴族社会の汚点に過ぎん! 伝統ある家の名を背負う者が、そのようなものを妻にするなど……! 今の貴族社会が堕落しているのも、新派とやらの成り上がり者どもが好き勝手をしているからだ!」
公爵の怒号が広間に満ちた瞬間、それまでざわめいていた空気が急激に冷え込んだ。オフィーリアの背筋に冷たいものが走り、扇を握る指に力が入る。この発言は明らかに一線を越えていた。
遠巻きに様子を伺っていただけの貴族たちの間にも微妙な緊張が走っているのがわかる。旧派に属する者たちどころか、取り巻きの貴族さえ誰も同意を示そうとしない。その沈黙が公爵の孤立を物語っていた。
ただの平民批判であれば、多少言葉が過ぎても理解を示す者もいたはずだ。しかし今の発言はそれとは違う。新派という存在そのものを、彼は「貴族社会を堕落させる存在」として断じた。それは新派貴族でも政治の中枢にいる宰相の権威をも否定することになる。
新派と一口に言っても、その内実はさまざまだ。テオバルトの侯爵家のように叙爵されて間もない家もあれば、旧派と比べても遜色ないほどの歴史を重ねた家もある。
貴族の誇りが長い歴史と伝統にあるのなら、少なくとも後者の家門が新参者と蔑まれる理由はないはず。そしてその最たる家門が宰相エルンストのクラウエンホーフ公爵家なのだ。
オフィーリアは視線をわずかに動かして、宰相エルンストの姿を探した。広間の片隅に立つ彼は、表情を変えることなく沈黙を守っていた。
まるで静観しているかのように見えるが、目元のわずかな歪みが、内に秘めた思惑を隠そうとしているようにも思えた。
もしここで彼が口を挟めば、事態はさらに混迷を極めるのではないか——そんな一抹の不安がオフィーリアの胸をかすめる。
ただテオバルトだけが平然としていた。公爵が自らの言葉で積み上げてきたものを崩していくのを、冷ややかな目で見守っているようだった。




