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第八十話 誇りの継承、意志の選択

「ようやく顔を見せる気になったか。待たされるのは趣味ではないのだがな」


 グローズベルグ公爵の低く響く声が広間に落ちた。華やかな談笑が続いていたが、その言葉が発せられると近くにいた貴族たちの動きがわずかに鈍る。公爵の言葉に耳を傾ける者、扇の陰から視線を向ける者、それぞれが関心を抱いていることは明らかだった。

 オフィーリアは初めて間近で公爵の姿を見た。装飾の施された黒檀の杖を手に持つ老公爵には年齢を重ねた貴族特有の風格があった。背筋は伸び、鋭い眼光はまるで獲物を見定める猛禽のように冷たい。

 彼の周囲には数人の貴族が控えており、それぞれが同じように批判的な目を向けている。その眼差しは、明確にこの場の空気を支配していた。


 しかしテオバルトは平然としたように一歩前に出ると、穏やかな表情を崩さず、冷静な口調で言葉を紡ぐ。


「お待たせいたしました、閣下。ようやくお時間をいただけたようで。こうしてご挨拶できる機会を頂戴し、光栄に存じます」


 オフィーリアもその言葉に倣い、静かに一礼する。立ち居振る舞いのすべてには細心の注意を払った。わずかでも礼を失すことがあれば、それは公爵にとって格好の攻撃材料になる。

 公爵の目は微動だにせず、冷たくこちらを見据えていた。取り巻きの貴族たちの表情にも微かな嘲りが見え隠れする。ここに立っていること自体が、すでに公爵や貴族たちにとっては受け入れがたい事実なのだろう。


「平民を連れてくるとは、随分と大胆なことをするものだな」


 公爵の声は低く、しかし部屋の隅々まで響くような力を持っていた。


「彼女は私の婚約者です。伴うことに何の問題がありましょう」

 

 侮蔑を隠そうともしない公爵に対し、テオバルトは微動だにせず、静かに言葉を紡ぐ。その声には怒りも焦りもなく、ただ穏やかな確信だけが満ちていた。オフィーリアはその横顔に目を向け、彼の表情にわずかな変化も見られないことに安心感を覚えた。

 それを聞いた公爵は鼻で笑い、取り巻きたちもまた、それに倣うように小さく笑みを漏らした。

 

「貴族というのは秩序と伝統によって守られてきたものだ。血統こそが基盤であり、それを持たぬ者がこの場に立つこと自体が貴族社会の根幹を揺るがすことになる」


 公爵の言葉に、取り巻きたちが静かに頷く。

 彼の主張は一貫している。貴族とは、その血統と誇りを守り続ける者のみが名乗るべき存在だというもの。そこに平民が入り込む余地など初めからない。

 ここにいる多くの貴族にとって、それは決して突飛なものではなく、むしろ当然の理であるかのように響いているのかもしれない。


「平民風情が、この場に立つことを許されるとでも思ったのか? ——自らの分をわきまえず、貴族の真似事をするなど、さぞ滑稽だろうな。惨めなものだ」


 惨め。

 その一言が、胸の奥にひやりとしたものを落とした。


 公爵の、地を這うような低い声はよく通る。遠回しな嫌味や冷ややかな視線にはもう慣れていたが、それはあくまでも礼儀の範疇で行われるものだった。

 しかし公爵の言葉にはそうした余地すらない。内容は予想の範疇ではあったが、これほど露骨な悪意を真正面から浴びるのは初めてだ。

 容赦のない拒絶と侮蔑。そのあまりの直球さに、思わず思考が一瞬止まる。

 ——けれど、心に落ちた波紋はすぐ静かに消えていく。

 隣に立つテオバルトが守ると言ってくれる以上、公爵の言葉に動揺する理由はどこにもなかった。


「閣下がどのようにお考えになろうとも、私の決意は揺るぎません。誇るべき伴侶を得たと確信しております」


 それは反論ではなかった。公爵の主張を打ち崩そうとするのではなく、ただ静かに、自らの信念を示す言葉。

 テオバルトの横顔を見ると、彼は依然として穏やかな表情を保っていた。その口元にはむしろ微かな微笑みさえ浮かんでいる。周囲の緊張感を余所に、彼だけが静かな湖のように澄み切っていた。

 しかし「生意気なことを」と公爵は吐き捨てた。

 

「泥水で育った者が、清らかな泉の水を語れるとでも? どれほど学ぼうと、どれほど振る舞いを真似ようと、生まれ持った品性というものは変わらぬものだ。」


 公爵の鋭い眼光にぎろりと捉えられ、オフィーリアはわずかに背筋を伸ばす。その瞳には何世代にも渡って受け継がれてきた誇りと、それに劣るとされる者への軽蔑が冷たく光っていた。

 例え何かを問われても、少なくとも今は発言するべきではない。平民に口答えなどされたら、彼らが余計に気を悪くするだろうことは目に見えている。

 広間の片隅では、遠目にジークベルトとローゼマリーの姿も見える。彼らもまた、この場の行方を静かに見守っているようだった。


「生まれがすべてだとお考えであれば、それを否定するつもりはございません。貴族としての矜持が、そうした新年に根ざしていることも理解しております」


 テオバルトの言葉は公爵の断定に抗うことなく、やんわりと受け流すものだ。争うことはないが、決して押し負けてもいない。

 ここで真っ向から反論するのが得策でないことはオフィーリアにも理解できた。感情的になれば余計に足元をすくわれるだけではなく、テオバルト自身の評価まで落としてしまう。

 言葉の応酬が続く中で、オフィーリアはふと気付く。公爵は否定し、テオバルトは応じる。だが、会話の主導権はどちらにあるのだろう——

 

「しかし、私にとっての誇りとは、己の信じた道を歩むことで生まれるものです」


 そうして淡々と述べられるその声音は落ち着いたもので、怒りを露わにすることも、苛立ちを滲ませることもない。テオバルトは少しの隙も見せることなく堂々とこの場に立っている。これが、彼がこれまでの外交の場で培ってきたものなのかもしれない。


 公爵の目がわずかに細まり、杖を握りしめるその指先がわずかに白さを増したのがわかった。


「お前のようなものが貴族の誇りを語るな!」


 公爵の杖が床を強く打つ音が響いた。これまで余裕を持っていたはずの声には、確かな怒気が滲み始めていた。押し殺そうとする意図は感じられるが、抑えきれない苛立ちが言葉の端々に表れる。


 公爵を取り巻いて立つ貴族たちが、互いに視線を見合わせる。流石に直接的すぎる物言いに居心地の悪さを覚えはじめたのか、これまではどこか余裕のある態度で傍観していたはずの彼らの表情が微かに変化していく。

 誰もが口を開かぬまま、この場の行方を見守っている。その沈黙の重みが、余計に公爵の苛立ちを際立たせていた。

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