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08 新しい朝

 薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、温かくも清らかな静けさを部屋に満たしている。

 オフィーリアは柔らかな光に溶けるような意識の中で、天井を見上げる。久しく忘れていた安らかな目覚めに、現実感が揺らぐ。

 その安らぎに浸っている間に、現実が静かに胸へと戻ってきた。


(そうだわ、私は……ラウレンティア大公国に、来て……)


 昨夜のことが、断片的に蘇ってくる。数日の旅の疲れと緊張の中での、侯爵との初めての対面。

 夕食を終え、湯浴みをしたあとのことはもう覚えていない。


(でも、こんなに熟睡してしまうなんて……)


 窓から差し込む陽光はすでに高く、時計を見ればいつもより遅い朝だったことを知る。


 オフィーリアはそっと体を起こし、部屋を見回した。

 家具はどれも白を基調にされ、落ち着きがありながらも可愛らしい印象の部屋だった。

 壁には花や鳥を描いた水彩画が飾られており、本棚には詩集や絵物語などさまざまな本が整然と並ぶ。白磁の花瓶に生けられた瑞々しい花がそっと彩りを添えている。

 日差しが降り注ぐ窓辺には小さなソファが置かれていて、窓からは庭がよく見える。

 それらが自分に用意されたものだと思うと、どうしてか胸がざわついた。


「——おはようございます。お嬢様、お目覚めになられましたか?」


 侍女の声だった。返事を返すことのできないオフィーリアが急いで扉を開けると、彼女は「まあ!」と一瞬驚いて、それから優しく微笑んだ。

 艶のあるブルネットの髪が揺れる。ラウレンティアからずっと付きっきりで身の回りの世話をしてくれている若い侍女は、確か名前をベルナといったはずだ。


「入室を許可するときは、鈴を鳴らしていただければよろしいのですよ」


 それは話せないオフィーリアのために考えられた仕組み。昨夜、きちんと説明してもらったはずなのにすっかり忘れていた。

 恥ずかしさに目を伏せるオフィーリアを穏やかに椅子に導くと、ベルナは一枚のカードを差し出す。


「こちらを、テオバルト様からお預かりしております」


 その名前を聞いてオフィーリアは顔を上げ、受け取ったカードを読む。


『おはようございます。今日という日があなたにとって穏やかなものでありますように』


 一文字一文字に込められた丁寧さが、差し出す手にも同じ慎重さがあったことを思い出させる。


 昨夜の夕食で見た、琥珀色の瞳が頭をよぎる。あまりに突然にはじまったこの生活の中で、彼に対して何を思えばいいのかまだわからなかった。

 穏やかで優しそうな人だという印象は受けたものの、まだ彼のことをよく知るには程遠い。本当に彼と夫婦になるのだという実感も無いままだ。

 カードを持つ手をそっと膝へ下ろしたオフィーリアに、ベルナが優しく声をかける。


「テオバルト様は朝早くに出仕されました。お忙しい方ではありますが、お嬢様のことは気にかけていらっしゃいますよ」


 話しながらベルナは朝の支度を進めていく。離宮では身の回りのことはすべて自分で行なっていたので、人に任せる感覚にどこか居心地の悪さを感じてしまう。

 顔を洗い、ドレスを着て、髪を整える。いつのまにか鏡の中には別人のように綺麗になった自分がいる。

 ベルナが選んでくれたドレスは白地に花柄の、年頃の少女が着るのにはぴったりの可愛らしいデザインだった。

 髪は一部を編み込んで結い、残りはそのまま垂らしておく。これまでほとんど手入れできていなかった髪は、綺麗に梳いてもらうことでほんの少し艶が増した気がする。


「朝食のご用意ができております。よろしければ、この部屋にお持ちいたしましょうか?」


 あの広い食堂でひとりきり食事をする、その光景を想像するとあまりの寂しさに胸が痛む。頷くことで返事をすれば、すぐに食事の用意が整う。

 程良く焼き目のついたパン、クリームを添えた卵料理、果実たっぷりのコンポート。ふわりと立ち昇る紅茶の香りに、懐かしさを覚えた。


 朝食を終えるとベルナが手際良くテーブルの上を片付けていく。一礼した彼女が部屋から出ていくと、オフィーリアは一人、また窓の外に目を向けた。

 まだ冬の名残りがあるものの、やわらかな陽光の差す庭の木々は風に揺れ、ふっくらとした冬毛に包まれた小鳥の姿が見られた。


 こうしていると、まるであの離宮の日々が嘘であったかのような気がすると同時に、今この瞬間こそが夢なのではないかという不安も押し寄せてくる。

 ベルナが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれることに、まだ、感謝より戸惑いのほうが大きかった。


 着せてもらう美しいドレスの重みさえ、どこか疎ましくさえ感じる。与えられるすべてが、自分にとっては不相応であるように感じられてならない。

 筆談の道具は身に付けているのに、それを使う勇気はまだなかった。

 

 ◇


 それから数日が経っても、オフィーリアの生活は穏やかなまま続いている。ただ気になるのは、最初の夕食の席で向かい合ったきり、侯爵の姿を見ていないこと。

 その代わり、毎朝のようにカードが届いた。


『静かな時間があなたにとって安らぎとなるよう祈っています。ごゆっくりお過ごしください』


 簡潔さの中にも確かな気遣いと優しさに溢れていて、それは空いていた心の隙間を少しずつ満たしていくようだった。

 

(でも、これが無償のものだなんて、思ってはいけない。きっと今だけ。侯爵様は私のことを何も知らないから、だから——)


 自分に言い聞かせるように、心の奥で繰り返す。決して冷遇されているわけではない。それでも息苦しさは消えてくれない。


 その不安から目を逸らすように、オフィーリアは窓の外へ目を向けた。窓辺に置かれた椅子が、いつのまにか定位置になっていた。

 時間の流れは穏やかで、そして、ゆっくりだった。木々の影が伸びていくのを眺めながら、太陽が落ちるのを待つ。

 時折、ベルナが何か言いたげにこちらを見てくることには気付いている。それでも、この静かな空間の中で、どう過ごすべきかわからなかった。

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