第七十八話 歌なき月、動かぬ太陽
侯爵たちと入れ替わるように歩み寄ってきたのは若い 貴族だった。高い天井から落ちる煌びやかな光を浴びて艶やかに輝く黒髪が、大広間の豪奢な装飾と調和しながら存在感を放っている。
しかしテオバルトの琥珀色の瞳が一瞬、慎重に相手を見極めるように細められたのを、オフィーリアは確かに見た。
「——いや、とても素晴らしいご演説でした。閣下のお言葉には流石の説得力がございますね。さぞ皆さまも感銘を受けられたことでしょう」
含みを持たせていることを隠すつもりもなさそうな、低く滑らかな声。年齢はテオバルトより少し下に見える。
さらりと流れる髪は黒曜石を思わせる漆黒。その下にある月白色の瞳はどこか気まぐれな光を孕んでいた。
仕立ての良い礼服、その胸元に精緻な刺繍で描かれた紋章を一瞥し、オフィーリアは記憶を手繰り寄せる。ローゼンタール伯爵家。旧派貴族の家門で、その名はテオバルトとの会話や茶会でも何度か耳にしていた。
均整の取れた長身に端整な顔立ち、洗練された物腰を持つ彼は、若い令嬢たちの関心を集めているという。特にテオバルトの婚約が公になってからは、その人気がさらに高まっているらしかった。
「お会いできて光栄です、ローゼンタール卿」
一歩前に歩んだテオバルトは穏やかに応じた。つい先ほどまで鋭く見極めるようだった眼差しは消え、そこには完璧なまでに作られた表情がある。
社交の場に立つ彼を見るのは今夜が初めてだが、同じように微笑んでいても、その笑みはいつも自分に向けられているものとは明確に違う。社交の仮面をつけた彼の姿は、日常では見せない別の顔だった。
「閣下に名前を覚えていただけていたとは、これまた光栄なことです。……おそらくは、良い意味で、ですよね?」
フェリクス・リューネ・ローゼンタールは優雅に微笑んだ。冗談めかした口調だったが、そこには確かな探りが潜んでいる。洗練された物腰の中に、どこか挑戦的な色が混じっていた。
周囲の貴族たちは何気ない様子で会話を再開させながらも、その意識の一端は確かにこちらに向けられていた。けれど、そこに張り詰めた緊張はない。むしろ静かに場を見守る眼差しには、期待や好奇に似た色が滲んでいる。
テオバルトとフェリクス——この二人の間に流れる見えぬ駆け引きに、誰もが興味を引かれているのかもしれない。
広間の華やかな雰囲気の中で、わずかな熱を帯びた視線が交差する。貴族たちにとってこうした言葉の応酬もまた社交の場での娯楽の一つなのだと、オフィーリアもこれまでの経験から嫌というほど思い知らされている。
「実は今宵、ぜひとも侯爵閣下とそのご婚約者様にご挨拶をと願っておりました」
品のある態度を崩さぬまま、フェリクスは磨かれた白銀のような瞳をオフィーリアに向けた。
その視線には表面上の敬意と、奥底に潜む好奇心が混在している。まるで珍しい標本を観察するような、冷静で分析的な眼差しだった。
「お初にお目にかかります、オフィーリア嬢。なるほど、噂に違わないお美しさです。閣下が心を奪われるのも至極自然なことですね」
値踏みするような視線に動じることなく、オフィーリアはゆるりと扇を開くと顔の前に添える。
そうして緊張を隠しながら微笑を浮かべる自分もまた、普段とは違う顔をしているのだろう。
「過分なお言葉、恐縮に存じます。けれど閣下が大切にしてくださるのは、そうした移ろいやすいものではありません。私もそのお心に応えられるよう、努めていく所存です」
「さすがです。歌を奏でずともこうして人々の視線を集めてしまうとは……やはり生まれもった輝きをお持ちなのですね」
にこやかに発せられたその声音は穏やかで、あたかも純粋な称賛のように響く。しかし月白色の瞳には未だ試すような色が滲んでいた。
オフィーリアの頭の中で記憶の断片が浮かぶ。フェリクスの母親はエストリエ出身の貴族令嬢だ。王族を除けば異国間の婚姻はそれほど一般的ではないようで、そのため彼の出自はやや珍しい部類に入る。その血筋が彼に奇特な雰囲気を与えているのかもしれない。
「恐れ入ります。どのような眼差しも、向けられる以上は私の存在を認識していただいているということですもの。ありがたいことですわ」
言葉の裏に隠された意図を察しながらも、オフィーリアは柔らかな微笑を絶やさなかった。
フェリクスは軽く胸元に右手を当て、敬意を示すように頭を下げてから、ゆるやかに視線を上げてこちらを見つめてくる。わざとらしいほど芝居がかった仕草だった。
同じような所作でも、テオバルトのほうがはるかに様になる。——あの星空の下で真摯に煌めいていた瞳を思い浮かべつつ、オフィーリアはどこか白々しい気持ちで彼の姿を目に映した。
「銀月の歌姫殿。エストリエにルーツを持ち、月を冠する名を持つ者同士、ぜひ親しくさせていただければ幸いです」
けれど流れるように紡がれたフェリクスの言葉に、指先がわずかに強張る。銀月の歌姫——懐かしさとともに、やはり、その名を口にするかと内心で小さく息を吐いた。
意図的に自分の過去に触れることで、何を引き出そうとしているのだろう。それでも、こうして真正面から持ち出されると、胸の奥がかすかに疼く。
しかしそんな一瞬の隙を気取られまいとするように、すぐそばから落ち着いた声が響く。




