第七十七話 紡ぐ言の葉、響く真意
「私がこの選択をしたのは、彼女への信頼と尊敬があったからです。若さに限らない多くの美徳を持っており、その輝きはこれからも年月を経るごとに深まっていくことでしょう」
あまりにも率直に語られた言葉に、オフィーリアは思わず息を呑んだ。わずかな驚きと共に、鼓動の速さを隠すように静かに息を整えながらも、頬に微かな熱が広がるのを感じる。その感情を抑えるようにまばたきを繰り返しながら、そっと隣に立つテオバルトへ目を向けた。
シャンデリアの光がその肩に落ち、銀青色の礼服が静かに輝きを帯びていた。広間中の視線が集まる重みを背に受けながらも少しも動じることなく、テオバルトは優雅な仕草でゆっくりと視線を巡らせた。
「年齢を重ねるのであれば尚更、そこに賢さや品位が伴われるべきでしょうね」
穏やかな声音のまま、それでも彼が言葉の端にほんの少しだけ冷やかな刃を忍ばせたことを、オフィーリアは確かに感じ取った。
思わず見上げた先で、琥珀色の瞳は静かに居並ぶ紳士たちを見据えている。いつもの柔らかな光はそのままに、確かな意志を宿して。その眼差しの奥に秘められた強さは、普段の穏やかな態度からは想像もつかないものだった。
紳士たちの表情がわずかに凍りついたのは、テオバルトの言葉の奥に潜む意志の強さを感じ取ったからだろうか。彼らは口元を引き締め、次の言葉を慎重に選んでいるようだった。手にしたグラスの中身を揺らすことで、沈黙を誤魔化している。
やがて、侯爵の隣に控えていた年配の紳士が静かに口を開く。身に纏う紋章に月桂樹を刻む彼もまた国政に関わる官僚だと、記憶が告げる。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い経験と知恵を物語っているようだった。
「閣下のご婚約には、政治的な意図はないと伺っておりますが」
「その通りです」
まるでそれ以上言葉は必要ないとでも言うように、テオバルトは短く肯定する。その簡潔さが、かえって強い意志を感じさせた。
「私自身は……閣下の信念には敬意を表します。誠実さを重んじられることは、閣下の美徳の一つでしょう。ただ、貴族たるもの、家門や国家の利益を考慮したご結婚を選ばれるのも、また大切な務めではないでしょうか」
問いかけるその声音はどこまでも穏当で、慎重に選ばれた言葉で綴られている。批判ではない。自分との結婚は何の利益ももたらさないと、ただ事実を述べている。だからこそ余計に重く、胸に響いた。
その言葉を聞きながら、オフィーリアは視線を伏せ、扇の影で指先に力を込める。広間に広がる緊張を肌で感じながらも、表情には動揺を見せまいと努めた。
扇の向こうでは、貴婦人たちが小さな視線を交わしあっているのが見えた。その優雅な立ち振る舞いの裏側にも好奇と評価の眼差しが隠されている。一度も言葉を交わしたことのない人々までもが、今この瞬間の一部始終を見逃すまいとしていた。
静かに広間を満たす視線を受けながら、テオバルトが口を開くのを待つ。わずかな間が生まれるが、それは迷いではなく、確かな言葉を選ぶためのものに思えた。
「もちろん、貴族としての責務を理解した上での選択です。家門の名誉を傷つけることなく、しかし、誰と人生を共にするかは私自身の意思で決めるべきだと考えました」
よく通る声に、広間の空気がわずかに張り詰める。すぐそばで感じるテオバルトの存在は、いつもと変わらず穏やかだった。
肩に添えられた手のひらから温かな体温が伝わる。控えめでありながら、確かな意思を持った仕草だった。
「確かに彼女は貴族の家門に生まれたわけではありません。ですが、彼女が学び、理解し、真摯に努めている姿を、私はこれまで見てきました。それを理想のままに終わらせるのではなく、現実のものとして示せるよう、私も共に歩んでいくつもりです」
テオバルトの言葉が静かに広間に響く。オフィーリアはそっとまぶたを伏せた。胸の奥がじんと熱くなる。彼の言葉はまっすぐで、迷いがない。それがどれほど心強く、どれほど救いになるものか——言葉にしようとしても、うまく形にならない。
ふと、左手の薬指に視線を落とす。指輪の小さな輝きが揺れる心をそっと支えてくれるような気がした。これは彼が選び、彼がこの指に嵌めたもの。確かな意志とともに贈られた証だ。
広間の片隅では、遠巻きに見守っていた別の貴族たちが小さくうなずきあう様子も見えた。納得したのか、あるいは懐疑的なのかは、表情のわずかな変化だけでは読み取れない。ただ少なくとも、テオバルトの言葉の真摯さは伝わったようだった。
そして聴衆の視線が自分にも向けられるのを感じた瞬間、オフィーリアは緊張を悟られぬよう扇をわずかに揺らしながら静かに息を整えた。一瞬の迷いを隠し、柔らかな声を紡ぎ出す。
「貴族社会の長い歴史と誇りは、この国の礎として尊いものだと感じています。その伝統を傷つけるつもりはありません。ただ、閣下と共にある者として、皆さまの英知に学び、私もこの社会に少しでも貢献できるよう誠実に在りたいと思います」
平民を受け入れないことは、彼らにとって長い歴史と誇りを守るための当然の選択なのだろう。貴族社会はそうした秩序を築き、国を動かしてきた。オフィーリアもその在り方を否定するつもりはない。
それでも、彼らの理を尊重しながらも、テオバルトと共に未来を築く術を探していきたい——穏やかに言葉を紡ぎながら、自分の内側にある小さな緊張を静かに押し込める。
テオバルトは静かに周囲を見渡し、貴族たちの反応を確かめるように一拍置いてから、再び口を開いた。
「いずれこの選択が間違いでなかったと証明できるよう、努めていくつもりです」
その言葉が広間に広がるのを感じながら、オフィーリアはそっと扇を傾け、テオバルトを見上げた。その横顔はどこまでも落ち着いていて、静かな威厳を帯びている。大勢の視線を集めながらも迷いなく言葉を紡ぐその姿は、まさに彼が築き上げてきたものの証のようだった。
茶会での何気ない発言や振る舞いが、数日後には周知の事実となる——。
その現実を、オフィーリアはこれまで幾度となく経験してきた。ささやかな会話の端々さえも拾われ、誰かの言葉を通して広まり、やがて社交界の共通認識となる。それが貴族社会というものなのだろう。
だからこそ、今この場で交わされているやり取りも、きっとすぐに広まり、人々の間で語られるに違いない。
テオバルトが紡ぐ言葉が慎重に選ばれていることも、彼が目の前の貴族たちだけでなく、噂を通じて広がる〝見えない聴衆〟にまで意識を向けていることも、オフィーリアにははっきりとわかった。
誰もが耳を傾けるべき相手を見極め、言葉を選び、慎重に振る舞う——それがこの世界で生きる者たちの流儀なのだと、改めて実感する。
貴族たちの間に小さな沈黙が生まれる。貴婦人たちの扇の動きが止まり、微かな視線が交わされるのがわかる。
誰もが明確な言葉を選びあぐねているような、そんな空気。その反応が彼の言葉の重みを物語っているように思えた。
即座に肯定や否定ができるほど、簡単な問題ではないのだろう。けれど少なくとも、ここにいる誰もが無関心ではいられなかった。
答えは今すぐには出ないとしても、徐々に形作られていくのだろう。そしてそれがどんな形を成すかはこれからの自分の振る舞いにかかっている。
これまで言葉を交わしていた侯爵たちは、軽く会釈をしながらその場を後にした。彼らも決して悪い人間ではないのだとわかっている。善も悪もなく、誰もが自分の大切なものを守ろうとしているだけなのだ。
彼らの背を見送りながら、オフィーリアはそっと胸を撫で下ろす。自分の振る舞いに問題はなかっただろうか——そう考えながら、隣に立つテオバルトへと視線を向けた。
「テオバルト様——」
声をかけようとして、ふと息を呑む。彼の眼差しが、先ほどまでとは違う鋭さを帯びていることに気づいたからだ。




