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第七十六話 滲む彩、透ける氷壁

 オフィーリアはテオバルトに連れられ、招待客との挨拶を続けていた。笑顔を浮かべ、交わされる祝辞に丁寧に応じる。

 その言葉の奥には平民への忌避感が滲んでいる。それでも毅然とした態度を保ち礼儀を尽くすのは、自分のような存在を受け入れてもらうためにそれが最善だと理解しているからだ。

 しかし、ふとすれ違った一団の中から抑えた声で囁かれる何かが耳に届いた瞬間、オフィーリアの表情はわずかに強張る。


「——平民にご執心とは、情けないことだ」


 胸の奥にじわりと、冷たい波が広がっていく。

 声は低く、意図的に抑えられているが、その声音には明らかにこちらに聞かせようとする意図があった。

 声のした方へ視線を巡らせてみても、誰が発言したのかを特定することはできなかった。貴族たちは皆、変わらぬ笑顔を浮かべ、楽しげに談笑を続けている。まるで自分たちではないと主張するかのように、自然体を装っていた。

 オフィーリアは思わず隣を歩くテオバルトに目を向ける。彼は何も聞こえていないかのように、穏やかな表情を崩さず、そっと小さく首を横に振った。気にしなくていいとでも言うような、静かな意図が込められた仕草だった。


 オフィーリアは口を開きかけて、そっと閉じる。誰も彼もが好意的に迎えてくれるわけではない——それはよく理解している。しかし自分の存在がテオバルト自身の評価までも傷つけているのだと痛感した瞬間、胸の奥に言葉にできないざわめきが広がった。

 それは静かな湖面に落ちた一滴の雨粒のように、じわじわと波紋を広げていく。どれだけ意志を強く持っていても、心の片隅に冷たい不安が忍び寄るのを止められなかった。


「リア。飲み物でもお持ちしましょうか?」


 ふと足を止めたテオバルトが、優雅な動作でこちらへ向き直る。その穏やかな眼差しには、彼なりの気遣いと温かさが滲んでいる。


「いいえ……大丈夫です」


 オフィーリアは控えめに首を横に振った。無理にでも笑顔を作ろうとしたが、唇の端がわずかに引きつるのを感じた。それでも、テオバルトの前では弱さを見せたくなかった。


 その時、視界の端にゆったりとこちらへ近付いてくる紳士の一団が映り込んだ。動作の一つ一つに余裕を感じさせながらも、目線はまっすぐテオバルトとオフィーリアに向けられていた。まるでこちらの様子を品定めするかのように、その視線には控えめな笑みと隠しきれない意図が混じっていた。

 先頭を歩く四十代ほどの紳士が手に持ったグラスを軽く持ち上げ、優雅に一礼する。その動作には、洗練された貴族特有の余裕と、計算された礼節が感じられた。


「シュルテンハイム侯爵閣下、そしてご婚約者殿。ようやくご挨拶の機会をいただけて光栄です」


 紳士は柔らかな笑みを浮かべながら、丁寧に言葉を紡いだ。彼の声は低く落ち着いていて、その場の空気を一層引き締めるような響きを持っていた。

 オフィーリアの視線はグラスを持つその手に向かう。家紋の刻まれた指輪(シグネットリング)がさりげなくも存在感を放っている。地方貴族の一人でありながら旧派の中でもそれなりに発言力のある侯爵家の当主だと、記憶の頁がささやく。


「こちらこそ、お会いできて嬉しく思います」


 テオバルトは一歩前に出て、穏やかな声で返礼する。未だ胸に渦巻く動揺をそっと奥底に押し込め、自分を紹介するテオバルトに倣って礼を取った。しかし、相手の紳士は冷ややかな一瞥を向けるだけだった。

 その周囲に並び立つ他の紳士たちも同様だ。笑顔を浮かべ、会話の流れを崩すことはないが、どこか見えない壁が立ちはだかっているように感じる。拒絶を露わにすることはない、しかし手を差し伸べることはなく、あくまで距離をとる。


 やがて侯爵が持ち出した話題は貴族社会の微妙な力関係に関するもので、オフィーリアが踏み込むには難しい領域のものだった。

 迂闊に口を挟むわけにはいかない。それでも会話の流れを見失わないよう耳を傾けた。言葉の端々から意図を汲み取り、表情や仕草にも注意を払う。何かしらの切っ掛けを掴み、会話に加わる切っ掛けを見つけたい——その一心だった。

 しかし、彼らの視線がこちらに向けられることはなかった。それは決して偶然ではない。無視することで平民の存在を否定する、明確な拒絶だった。


「——そのようなお話は、また然るべき場でゆっくりと議論させていただければと思います。この場では少々、話が過ぎるように感じますので」


 テオバルトは穏やかな笑顔を崩さず、侯爵の話題をやんわりと遮る。場の空気を壊さないよう配慮しつつ、確かな意志の込められた声だった。

 侯爵は一瞬眉を上げたが、すぐに涼しげな笑みを浮かべ直す。「もちろんです」と軽く頷く彼の表情には尚もどこか含みがあるように見える。


 まるでその存在を示すように、テオバルトの手がそっと腰に触れた。オフィーリアは一瞬息を呑む。きっと彼には何か意図があるのだろうと、微笑みを崩さないように意識する。

 彼の手から伝わる温もりは、言葉以上に「ここにいてもいい」と語りかけてくれているようだった。


 侯爵たちの目に、まるで見世物でも眺めるかのような好奇の色が浮かんでいる。

 いよいよ無視できなくなったのか、彼らはようやくオフィーリアに視線を落とす。その奥に隠された冷ややかな興味を、オフィーリアははっきりと感じ取った。


「突然のご婚約でしたから、驚いたものです。お相手が平民とは……私どもにはなかなか真似できない選択ですな」


 柔らかな言葉に隠された棘は、あまりにも明白だった。周囲に控える紳士たちもまた微笑を浮かべたまま視界の端でこちらを伺っている。表向きは礼儀を守りつつ、その実、どれだけ面白い反応を引き出せるか試しているようだった。


「私はただ、自分の心に正直でありたいと思っただけです。それが皆さまにどのように映るかは、それぞれのお考えによるでしょう」


 明らかな皮肉に、テオバルトは静かな声で応じた。その声にはまったく動揺が見られない。一歩も引かず、しかし相手を攻撃することもなく、ただ柔らかく受け流す。その姿にオフィーリアは胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 こうした批判を受けることを彼はきっと初めから理解していただろう。ただ貴族というだけではない、より高い地位にいる彼が平民を迎え入れることで、どれほどの偏見や冷たい目に晒されるか——それでも尚、生涯を共にしたいと願ってくれた。その決断が、どれほどの深い愛情と覚悟によるものだったか。

 

 テオバルトの返答に、紳士たちは一瞬だけ視線を交わし合った。まるで無言の会話が行われたかのように、互いの目の奥で何かを測るような空気が流れる。

 微笑みを絶やさないまま、ほんの少しだけ口元を引き締める者もいた。彼らの間に走った緊張感はあまりにも短いもので、すぐにまた涼やかな仮面が貼り付けられる。

  

「これまで数々の縁談をお見送りされていたと伺っていますが、ようやく理想の方と巡り会えたようで何よりです。今回のご決断には、さぞ特別な理由があったのでしょう」


 一際通る声が静かに会話の輪に響いた。グラスを片手に持ったまま、侯爵は僅かに口元を吊り上げている。穏やかな声音や品のある物腰は変わらないが、その内側に潜む評価と探りの目は、確かにこちらを狙いすましていた。

 オフィーリアの心臓が小さく跳ねた。自分達に向けられたその言葉が暗に示す意図を理解せずにはいられない。


「経験豊かな女性よりも純粋さや無垢な魅力をお求めになったのでしょうか」

「若さや初々しさといったものには、時に何にも変え難い魅力があるということですかな」

「閣下もお若いですからね。時に情熱に任せてのご決断も仕方のないことかもしれません」


 次々と重ねられる、わざとらしい言葉。柔らかな笑みの裏に潜む棘に、胸の奥がひりつく。若さ以外には何もないと、そう言われたのだと理解した瞬間、指先が微かに震えた。

 同時に、その言葉はテオバルトをも貶めていることに気付く。一時の情熱に流され、若さに溺れ、理性も誇りも忘れた愚か者だと言わんばかりの響き。

 彼がどれほどの誠実さと信念を持ってこの関係を守ってきたか、慎重に距離を測り、オフィーリアを尊重してくれていたか、そんなことは彼らの目には映らないのだ。


 彼らの価値観を考えれば、平民を受け入れられないのは仕方のないことだ。それがこの貴族社会の理であるなら、どれほど痛みを伴おうとも飲み込める。しかしその矛先がテオバルトへも向くなら、それは看過できない。

 けれど、感情的になってはいけない。彼らが重んじるのは冷静さと品位、そして言葉の裏に潜む真意。この場に相応しい振る舞いと、言葉を選ぶ必要があった。

 時間が緩やかに引き延ばされたような感覚の中で、そっと息を吸い込む。手にしていた扇を静かに開くと、絹の布が柔らかく広がる控えめな音を立てた。


「まあ……」


 扇の陰で、ゆっくりと表情を整える。唇の端を少しだけ持ち上げ、柔らかな笑みを描いた。目の前の紳士たちだけではなく、周囲の貴族たちもさりげなくこちらに注視しているのを肌で感じる。

 鼓動がわずかに速くなった。それは決して緊張でも怯えでもなく、かつて舞台で歌い始めるその瞬間に感じた、ささやかな高揚感に似ていた。

  

「若さというのも、魅力の一つではありますね。しかし真に価値のあるものは年月を重ねても失われないものだと、テオバルト様が教えてくださいました」


 あくまで穏やかに、柔らかな口調で言葉を紡いだ。空気の中にしんとした波が広がり、一瞬の沈黙が場を支配する。誰もが自然な顔を保ちながら、その内側でかすかな動揺が走ったように見えた。

 腰に添えられていた手に、わずかに力が込められる。その動きはまるで波が寄せるような自然さで、オフィーリアの体を引き寄せた。

 その力強さと共に、見えない壁の向こうで流れが変わったのを感じる。

 その静かな動作に続くように、テオバルトの声が低く響いた。

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