第七十五話 静かな舞台、澄む微笑
ほんの少し、会場全体を見渡すだけの余裕も出てきた。
煌びやかなシャンデリアの光が広間を満たし、招待客たちは各々が小さな輪を作って会話を交わしている。控えめな笑い声や、グラスの触れ合う音が、静かに漂う華やかな空気を彩っていた。
視線を巡らせると、クラウスの姿が目に入った。今夜の彼はテオバルトの側を離れ、招待客たちの中に自然に溶け込んでいる。隣にはセシルもいる。外務省の関係者たちと談笑しているのだろうか。
会話の合間にこちらに気付いたクラウスが、控えめに一礼する。その生真面目な仕草に、オフィーリアとテオバルトは自然と顔を見合わせて微笑んだ。
目線を少し動かした先にはローゼマリーの姿も見えた。いつもオフィーリアに対しては真剣な顔で淡々と話す印象の彼女が、今は柔らかな表情で招待客たちと丁寧に言葉を交わしている姿が新鮮で、つい目を奪われてしまう。
そして、ベルナは少し離れた場所に控えていた。いつでも手を貸せるように静かに見守っている。彼女の穏やかな眼差しが届く場所にいることで、オフィーリアの心には小さな安心感が広がっていく。
会場内を観察しながら、オフィーリアは、事前に目を通してきた参加者の一覧を思い出していた。
招待客の名前や家門、役職などは一通り覚えてきていたが、遠巻きに見る相手とそれらの情報を結びつけるのは難しいものがある。
「——あちらでオルデンベルグ卿と話しているのが、エルデンロート侯爵です」
テオバルトが、そっと耳元で教えてくれる。その声は広間のざわめきに溶け込み、周囲には聞こえないように自然な抑揚で伝えられていた。
オフィーリアは視線を向け、指摘された人物を確認する。五十代辺りの、落ち着いた佇まいの紳士がマクミシリアンと静かに言葉を交わしている。彼は確か旧派で、財務省の官僚。
「侯爵夫人は社交界でも顔が広く、母とも親しい方でした。後ほどご挨拶に伺いましょう。向こうにいるのが——」
テオバルトは続け、そのたびにオフィーリアは小さく頷きながら心の中で名前と顔を重ね合わせる。一度そうしてしまえばもう忘れることはない。記憶の中の文字情報が目の前の人物と重なっていくたび、それが少しずつ自信に変わっていくような気がした。
改めて会場を見回すと、控えめな笑い声とグラスの音が広間に柔らかく響く。オフィーリアがそちらへ目を向けると、視線を感じ取ったらしいいくつかの扇が動きを止め、遠巻きに見守るような視線が集まってくる。
「そろそろ、皆様へご挨拶にまいりましょうか」
「はい」
テオバルトの声にオフィーリアは頷き、小さく息を整える。
ちょうど視線を向けていた貴婦人たちの一角へ、テオバルトは自然な足取りで向かった。オフィーリアもその腕に手を添えながら、穏やかな微笑みを保つ。
「皆さま、今宵もお変わりなくお過ごしのようで何よりです」
テオバルトが穏やかな笑みと共に柔らかな調子で声をかける。貴婦人たちはお互いに視線を交わし合い、次に口を開いたのは群れの中心に立つ一人の伯爵夫人だった。年の頃は四十代、優雅な所作と慎重な目つきが印象的だ。
「これはシュルテンハイム侯爵閣下、お久しぶりでございます。私どものような者にもお声をかけてくださるなんて、光栄ですこと」
その言葉に続いて、周囲の貴婦人たちも控えめな笑い声を漏らす。
伯爵夫人は口元に優雅な笑みを湛えていたが、その目には好奇心と、ほんの少しの探るような色が見え隠れしていた。
手元の扇が控えめに一度だけ開かれ、再び閉じられる。まるでその仕草が無言の合図であったかのように、他の貴婦人たちも徐々に会話に加わり始める。
「先日の茶会ではオフィーリア様のお話がたくさん出ておりましたのよ。皆さま、あなたの落ち着いたご様子に感心していらっしゃいましたわ」
「ありがとうございます。まだ至らないことばかりですが、皆さまに支えていただきながら少しずつ慣れてきました」
「まあ、なんて可愛らしいことをおっしゃるのかしら」
オフィーリアは微笑みながら、一つ一つの言葉を丁寧に選んで答える。その受け答えに貴婦人たちは扇を揺らし、互いに小さく視線を合わせた。
表向きは穏やかな雰囲気が保たれているように見えたが、どこか底の見えない湖のような静かな緊張感を肌に感じる。
「それにしても、本当に夢のようなお話ですわね。まさか歌姫がこうして侯爵夫人になられるなんて。まるで御伽話のようですわ」
控えめに揺れる扇子の奥から意図を読ませない笑みが覗いても、その言葉に込められたかすかな棘をオフィーリアは見逃さなかった。
一瞬だけ呼吸を整え、声の調子を崩さずに返した。
「御伽話だなんて、そんな素敵なお言葉にしてくださって嬉しいです。私も時々これが現実なのかと不思議な気持ちになります。でもこうして皆さまとお会いできている今が本物だと思うと、本当にありがたく、身が引き締まる思いです」
オフィーリアの言葉に、貴婦人たちの目が細くなる。
果たしてそれは『興味深い』なのか、それとも『物足りない』なのか、どちらとも判断が付かない微妙な反応。
「こうして平民にも目をかけてくださるなんて、やはり侯爵様はお優しい方ですわね」
「ありがたいお言葉です。ですが、オフィーリアの魅力は身分に限られるものではありません。私にとって最も大切なのは、彼女自身が持つ誠実さと真心です」
テオバルトがやんわりとした口調で返すと、貴婦人たちは一瞬だけ口元を引き締め、次いで一斉に笑顔を浮かべた。
その笑顔が真意を隠していることは容易に読み取れた。そしてオフィーリアもまた笑みを深める。
「それでは、私どもも見習わなくてはいけませんわね。身分ではなく、人の本質を見るということを」
「ええ、私もまだ学ぶことばかりです。皆さまから学ぶべきことはたくさんございますので、どうかこれからもご指導いただければ幸いです」
オフィーリアの丁寧な言葉に、貴婦人たちは一瞬だけ視線を交わす。そのわずかな動きすら見逃さないよう、オフィーリアは柔らかな笑みの裏で、一つ一つの反応を慎重に観察していた。
同時に、次に何を言うべきかを考えていた。会話をただ受け流すだけではなく、少しだけ、自分からも踏み出す必要がある。
——貴婦人たちの会話の隙間を見極め、胸の奥に潜む小さな緊張を飲み込むように、ゆっくりと口を開く。
「そういえば、先日お話に上がっていた織物展示会ですが、お嬢様の作品が特に素晴らしかったと伺いました」
オフィーリアの言葉に、伯爵夫人は一瞬だけ目を見開き、次いで優雅に扇を揺らした。
他の貴婦人たちも自然と彼女に視線を集め、静かな期待がその場に漂う。その重みを受け止めながら、オフィーリアは続ける。
「東方の珍しい素材を使われたとか。伝統を守りながらも新しい風を取り入れるお姿には、私も学ばせていただきました」
「まぁ……あの展示会にお越しいただいていたのかしら?」
「実際に足を運ぶ機会はございませんでしたが、お噂を耳にして、ぜひ一度拝見してみたいと思いました。次の機会があれば、ぜひお誘いいただければ嬉しいです」
オフィーリアは、自然な親しみと控えめな敬意を込めてやわらかく微笑んだ。伯爵夫人は扇子の陰から目を細め、他の貴婦人たちもわずかに頷き合う。彼女たちの笑みは、表情を覆い隠すようにゆるやかに扇の影に包まれた。
控えめな笑い声が、緩やかにその場の空気をほぐしていく。オフィーリアも静かに笑みを返し、自然な調和を保ちながら、次に向けて心を落ち着けた。
「まあ、オフィーリア様にそんなふうにおっしゃっていただけるなんて光栄ですわ」
伯爵夫人の扇子の陰から、目を細めた優雅な笑みがこぼれた。他の貴婦人たちも、それぞれに小さく頷き合い、わずかに張り詰めていた空気が和らいでいく。
オフィーリアはその変化を敏感に感じ取り、自分の言葉が少しでも受け入れられたのだと胸の内で静かに息を吐く。
ふと隣に目を向けると、テオバルトが口元にわずかな笑みを浮かべていた。言葉には出さないものの、彼の穏やかな表情には、オフィーリアへの信頼と誇らしさが滲んでいるようだった。
「私たちは皆、貴族社会の一員として、お互いに助け合うべきですものね」
「ありがとうございます。こうして皆様とお話しできる機会をいただけたこと、とても光栄に存じます」
貴婦人たちの笑顔には依然として探るような色が残っていたが、少なくとも拒絶の色は薄れ、慎重ながらも歩み寄りの姿勢が感じられた。
「それでは、どうぞ引き続きお楽しみください。また後ほど、お話しできれば嬉しいです」
テオバルトが柔らかく一礼すると、オフィーリアもそれに倣って丁寧に頭を下げた。彼の所作には無駄がなく、ゆるやかな動きにさえ品格が宿っている。その背筋の通った姿は彼がこの場においても決して隙を見せていない証だった。
離れ際、視線を感じて振り返ると、扇の陰からひそやかに見守る瞳があった。その目には、わずかばかりの興味と、少しの好意が混じっているようにも見えた。
それが真意であるのか、あるいはただの仮面であるのかは、まだわからない。それでも間違いなく、これは確かな一歩だった。
二人は再びゆったりと歩き出し、オフィーリアは小さく息をつく。テオバルトはそれを見て、ほっとするような優しい微笑みを浮かべていた。
「とても自然に対応できていましたよ。皆さまも悪い印象は持たれていないようです」
「ありがとうございます。まだ緊張はしていますが、少しだけ余裕を持てるようになった気がします」
「十分です。あなたの言葉は、彼女たちにしっかりと届いていましたよ。——さて、次はどちらに向かいましょうか……」
テオバルトの言葉に、オフィーリアはもう一度会場を見渡した。彼の隣に立ちながら、次に進むべき方向を慎重に見極める。
貴婦人たちの集まりとはまた違った、今度は紳士たちが集う一角へ、次なる歩を進めるべき時が来ているようだった。




