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第七十四話 満ちる覚悟、響く視線

 大広間へ続く扉の前に立つテオバルトの姿を見た時、オフィーリアはわずかに息を呑んだ。銀青色の礼服に身を包んだその姿は凛と気高く、周囲の空気さえ引き締めるよう。

 テオバルトの表情はいつものように穏やかで、どこか嬉しさを隠せないようにも見えた。琥珀色の瞳には、誇らしさと静かな喜びが滲んでいる。


「いよいよですね。無事にこの瞬間を迎えることができて、嬉しく思います」


 テオバルトの静かな声が広い廊下に柔らかく響く。差し出された手の袖口に、オフィーリアは自然と目を留めた。銀糸で綴られた月桂樹の刺繍は旧派貴族の象徴。彼が当たり前のように身に纏うそれと同じ意匠が、自分のドレスの裾にも縫い込まれている。


「月桂樹は誇り高い者の象徴です。あなた以上に、相応しい人はいない。どうか自信を持ってください」


 その言葉が胸に染み渡ると、心の奥に蟠る最後の不安がゆっくりと溶けていくのを感じた。


「あなたが隣にいてくださる限り、私はどんな視線にも負けません」


 オフィーリアは迷いなくその手を取る。触れ合った指先から、静かに、しかし確かに、何かが始まる音がした。


 ◇


 扉が開かれ、眩い光が一瞬視界を奪った。

 大広間に集う無数の視線が一斉に自分に注がれる。その重みに息が詰まりそうになった瞬間、テオバルトの腕に添えた指先に静かに力を込めた。

 並んで歩みを進めるたび感じる視線は、期待と興味、そして試すような冷ややかさが交じり合っている。それらは無言の評価となってオフィーリアの肌を焼くようだった。


「本日、我がレーヴェンハースト伯爵家に新たに迎える者をご紹介いたします」


 ジークベルトの声が静かに響く。テオバルトと共にオフィーリアは深く一礼した。銀糸の刺繍が施されたドレスの裾が光を受け、仄かに揺れてささやかな輝きを放つ。

 顔を上げて姿勢を正すと、改めてその場を見渡す。優しげに微笑む者もいれば、無表情に品定めするような者もいる。中には、明確に拒絶の色を滲ませる視線もあった。オフィーリアは静かに呼吸を整える。


 オフィーリアの隣に立つテオバルトは短くも礼節を尽くした挨拶の言葉を述べた。招待客たちへの感謝と、この場に立つことの喜びを伝え、そして最後に、柔らかな声で締めくくった。


「——どうか、私たちの進む道を見守っていただければ幸いです」


 落ち着いた声が、広間全体に確かに届いているのを感じる。

 貴族たちはお互いに様子を伺いながらも動かない。序列や立場に従い、最初に動くべき者がいる。それを理解しているからこそ、皆が静かに待機しているのだ。

 その沈黙を破ったのは、軍務卿マクミシリアン・オルデンベルグだった。優雅な笑みを浮かべるエリザベート夫人が、ゆったりとした足取りで近づいてくる。


 オフィーリアは、その姿を見て自然と緊張が和らぐのを感じた。テオバルトが信頼する人物たち、そして自分もまた、長い時間をかけて学びを受けてきた恩人たちだ。

 マクミシリアンが静かな声で祝いの言葉を告げる。その言葉は広間の張り詰めた空気を、ほんの少しだけ柔らかくするようだった。彼の言葉がただの儀礼ではなく、心のこもったものであることを感じ取った。


「オルデンベルグ卿、エリザベート夫人。改めてご紹介いたします。私の婚約者、オフィーリアです」


 そう言いながらテオバルトは自然な仕草でオフィーリアの腰に手を添えた。その手の温もりが言葉以上に強い支えとなって伝わってくるようで、オフィーリアはそっと微笑んだ。


「オフィーリアは、これまでの社交の場でも夫人に多くのことを学ばせていただきました。これからも変わらぬご助力をお願いできればと思います」

「もちろんですわ。オフィーリア様がこれまで積み重ねてきたことが、今日こうして身を結んでいるのですもの。私も嬉しい限りです」


 控えめにうなずく夫人の藍白の瞳は、いつものように温かくオフィーリアを見つめていた。その眼差しには、これまでの努力が決して無駄ではなかったことを静かに伝えてくれるような優しさがあった。

 テオバルトは普段と変わらない穏やかな表情を保っているものの、ほんの少しだけ目元が柔らかくなっているのがわかった。親しい人々に祝福されることが、彼にとってどれほど喜ばしいことなのか、その琥珀色の瞳には隠しきれない温かさが滲んでいる。彼が見せる、ごくわずかな感情の変化を見逃さない自分がいることが、なんだか誇らしく思える。


 マクミシリアンはこの場でも、特に多くを語ることはなかった。ただ、エリザベート夫人の言葉に静かに頷き、穏やかな眼差しをテオバルトとオフィーリアに向けていた。その瞳には、余計な探りや疑念の色はなく、ただ純粋な祝福が滲んでいるように見えた。かつてのテオバルトもこの眼差しに導かれて成長してきたのかもしれない。


 それから少しして、マクミシリアンとエリザベート夫人との会話が穏やかに終わる。夫妻が見せた親しみのある態度は周囲に確かな印象を残したようだった。貴族たちの視線の中には、少しずつ変化の兆しが見えてくる。扇子の影から伺っていた貴婦人たちも、控えめに顔を見合わせ、何かを確かめ合うように小さく頷いていた。


 軍務卿夫妻と入れ替わるように落ち着いた足取りで歩み寄ってくるのは、宰相エルンスト・クラウエンホーフだった。やわらかな笑みを浮かべつつも、彼の眼差しはどこか涼やかで、場を見極めようとする静かな鋭さを宿している。


「お久しぶりです、宰相閣下。今宵お越しいただき、光栄に存じます」

「伯爵家の夜会にお招きいただけるとは、私としても嬉しい限りです」


 テオバルトの声は穏やかでありながら、先程マクミシリアンに向けていた自然体のものとは違う。社交の場における、洗練された礼節を感じさせる響きだった。オフィーリアもそれに倣い、静かに一礼する。

 エルンストは柔らかな笑みを保ちながらも、旧派貴族たちの反応を探るように視線を巡らせているようだった。その一見穏やかな姿勢の裏には、新派を代表する立場として、どのように振る舞うべきかを常に計算している様子がうかがえる。


「お久しぶりですね。以前お会いした時とは、また違った雰囲気を感じます」


 エルンストの視線がオフィーリアに向けられた。彼の言葉は評価を含んでいるようでありながら、その真意を読み取ることは難しい。

 オフィーリアは微笑みを崩すことなく応じた。


「ありがとうございます。皆様のご支援があったからこそ、こうしてこの場に立つことができています」


 オフィーリアの言葉に、エルンストは軽く頷きながら、再び広間を見渡すように視線を動かした。彼の表情には変わらない柔らかさがあったが、どこか遠くを見つめるような冷静さも垣間見える。

 外務卿であるテオバルトとは公務を通じて深く関わりのある人物だ。内心どうであれ、平民を容認すると周囲に受け取られるような発言はできないのだろう。彼の言葉には常に一定の距離が保たれているように感じられた。


 旧派と新派、それぞれの代表的が少なからず友好的な態度を示したことで、場の雰囲気が少し変化したことに気付く。慎重に様子を伺っていた招待客たちの顔にわずかながら柔らかさが覗き、小さな会話や控えめな笑い声が戻る。

 オフィーリアは、和らいだ空気の中にほんの少しだけ安堵を感じながら、次に訪れる波を静かに待ち受けていた。

 

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