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第七十三話 凛たる眼差し、仄めく灯火

 格式ある夜会にふさわしく、伯爵邸の大広間には厳かな空気が満ちていた。

 ジークベルトが挨拶を終えると、貴族たちは待ち望んでいたかのようにささやき合い始めた。グラスの触れ合う音や控えめな笑い声が広がり、静かだった空間に華やかさが戻ってくる。

 煌びやかなシャンデリアの光が床に柔らかな影を落とし、貴族たちの衣装に反射して色とりどりの輝きを放つ。その光景は幼き日にテオバルトが見上げていた夜空の星々のようで、懐かしさと共に何か儚いものを感じさせた。


 テオバルトはすでに会場に立ち、招待客たちと自然に会話を交わしていた。格式や伝統を重んじる旧派の貴族たちと、実力でのし上がってきた新派の貴族たちが交わるこの場で、テオバルトは一つの場所にとどまることなく、会話の輪を柔らかく広げていく。

 胸の奥には常に緊張が潜んでいたが、それを表に出すことなく、表情は穏やかさを保ったまま。外交の場ではいかなる相手とも渡り合えるという自負はある。しかし社交界の華やかさには未だにどこか馴染めない部分があった。それでも、今夜ばかりは堂々とした態度を崩さない。


 招待客の選定には多少なりともテオバルトの意向が反映されている。しかし、すべてがオフィーリアにとって好ましい相手ではない。彼女を社交界に認めさせるためには、あえて否定的な立場の者たちにも門戸を開く必要があったのだ。

 旧派貴族の多くは、貴族階級に平民の血が混じることを強く忌避している。しかし、新派の貴族たちも必ずしも平民に対して寛容というわけではない。ある者は固く心を閉ざし、またある者はその覚悟を見極めようとしている。

 貴族社会の多様な価値観がこの場に集約され、場の空気に微細な緊張感を漂わせていた。その複雑な力関係を一目で把握しながら、テオバルトは静かに波紋を観察していた。


「——侯爵。今宵の婚約者のお披露目、実に楽しみにしております」


 見知った顔の伯爵が、目尻を下げて声をかけてきた。


「オフィーリア嬢のご活躍、最近では貴婦人方の茶会でも話題になっておりますよ。あの若さで、実に謹厳な振る舞いをお持ちだと伺っております」

「ご関心を寄せていただき、恐縮です。実際にお会いいただければ、きっとそれ以上の印象を抱いていただけるかと」


 テオバルトは控えめに微笑んだ。その言葉は謙遜を装いつつも、確かな誇りを滲ませている。


「なるほど、侯爵のお眼鏡にかなった方とあれば、並々ならぬ方に違いありませんな。しかし、貴族社会に入られたばかりであの落ち着きようとは、驚嘆に値します」

「彼女は、どのような場所でも自分の芯を見失わない方です。その姿を皆様にもご覧いただければ幸いです」

「ますますお会いするのが楽しみです。場の皆も、同じ思いでしょう」

「そのようにお言葉をいただき、心より感謝いたします


 今も控え室でその時を待つオフィーリアの姿を思い浮かべると、胸の内に静かな温もりが広がった。この大事な場面に向けて努力を積み重ねる姿を間近で見てきたからこそ、その覚悟と、それに伴う不安も理解している。

 彼女がふと見せる小さな迷いや、心の奥に宿る繊細な揺らぎ——誰も気づかないようなその瞬間を、そっと受け止めてきたつもりだった。


 だからこそ、彼女がこれから迎える視線の一つ一つにどのような感情が隠されているのか、自然と目が向く。

 招待客たちの中にはオフィーリアに好意的な者も少なくない。それでもやはり気掛かりなのは、未だ彼女を認めようとしない者たちだ。

 笑顔の奥には、探るような視線や試すような空気が潜んでいる。その視線が波紋のように広がり、会場全体に静かな緊張をもたらしていた。

 その緊張を保ったまま、テオバルトの足は広間の一角で歓談する貴婦人たちへ向かう。


「イザベラ侯爵夫人、皆さま。本日はお目にかかれて光栄です」


 イザベラ・エルデンロート侯爵夫人は、涼やかな眼差しをテオバルトに向けた。彼女の佇まいにはいつも確固たる自信と、貴族社会の女性たちを取りまとめる実力者としての風格が滲んでいる。優雅な扇を軽く揺らしながら、夫人は周囲の女性たちの視線を自然に集めている。

 夫人は、かつてテオバルトの母アレクシアと親しい友人だった。アレクシアが亡くなった後も、何かと自分たち兄弟を気にかけてくれている存在であり、その視線は時折、亡き母を想うような懐かしさが浮かんでいるように思えた。

 これまで持ち込まれた縁談の多くはイザベラの手によるものだった。老婆心故だとしても、品定めされているような居心地の悪さを感じることもあった。しかしそれも決して悪意からではないのだ。


「今日はついにご婚約者の方を拝見できるのね。あなたったら、勿体ぶって一度も会わせてくださらなかったんですもの


 その声には年齢を感じさせない張りと、社交界の長としての威厳を併せ持っている。

 イザベラは扇子の影から鋭い目をのぞかせた。柔らかな笑顔の裏に、いつもの探るような視線が潜んでいる。


「これまでにご紹介した令嬢たちも皆、素晴らしい方ばかりでしたわ。それでも見向きもしなかったあなたが、どのような方に心を動かされたのか、とても興味がありますのよ」


 テオバルトは軽く息を整え、にこやかに答えた。その言葉に少し、真意を込めて。


「これまで多くの素晴らしい方々をご紹介いただきましたが……今回ばかりは理屈ではなく、自然に心を惹かれました。是非、彼女の人柄を直接感じていただければと思います」


 オフィーリアの特別さは、縁談や条件などで測れるものではなかった。それを敢えて口にせず彼女自身の魅力を夫人に感じてもらうことが、最も誠実な答えになるとテオバルトは理解していた。

 イザベラの扇子が音もなく閉じられ、彼女は興味深げに目を細めた。その視線には、まだ何かを見極めようとする冷静さが漂っている。

 興味と慎重さが絶妙に同居する眼差しは、かつてアレクシアに向けられていたものと同じだ。テオバルトはその視線をまっすぐに受け止めた。


 夫人は確かに厳しい価値観を持つが、表面だけで人を判断するような人物ではない。幼い頃からその姿を見てきたからこそ、それだけは確信を持って言えることだった。

 新派に属する人間でありながら、旧派の伯爵家に嫁いだ母アレクシアにも、変わらぬ優しさと理解を寄せてくれていたのだから。

 今宵のこの場で、オフィーリアがその目にどう映るのか。テオバルトはその瞬間を見極める覚悟を胸に秘め、静かに息を整えた。


「例の平民はまだ姿を見せないのか。待たされるのは性に合わん」


 突然の声に、周囲の会話がぱたりと途切れた。グローズベルグ公爵がいつの間にか傍に立っていたのだ。白髪の老侯爵は威圧的な眼差しでテオバルトを見据え、グラスを揺らしていた。その姿には何十年も貴族社会の中心に立ち続けた威厳と、時代に取り残された頑なさが交錯するようだった。

 イザベラは、その露骨な物言いにわずかに眉をひそめた。夫人は少なくともグローズベルグ公爵の無礼さには同意していない。取り巻きの貴婦人たちも顔を見合わせ、やがて静かにその場を離れていった。


「貴族社会の格式も落ちたものだな。たかが平民の小娘一人のために、これほど大げさに取り仕切るとは。怖気づいて逃げ出さなければいいが」


 テオバルトは琥珀色の瞳に、一瞬だけ冷たい光を宿した。しかしその影はすぐに消え、代わりに穏やかな笑みが浮かぶ。胸の内で沸き起こる怒りを静めるように、ひとつ、深く息を吐いた。

 感情に任せた言葉は相手の思う壺だ。一瞬の隙が相手にどれほどの餌を与えるかは先日の夜会で痛感したばかり。あの時の自分の失態が、今も耳の奥で小さく響いていた。今夜こそは、完璧に冷静さを保たなければならない。


「公爵、今宵はご足労いただき感謝いたします。彼女はすでに準備を整えておりますので、どうか楽しみにお待ちください」


 目当ての反応を引き出せずに興が覚めたのか、グローズベルグ公爵は鼻を鳴らし、取り巻きを連れて足早に去っていく。テオバルトはその背を静かに見送りながら、老公爵の影響力が未だ社交界に根強く残っていることを改めて実感した。彼の平民への露骨な偏見は、新しい時代の流れに逆らう象徴のようでもあった。

 一瞬張り詰めた空気は、いつの間にか元の穏やかなざわめきへと戻っていた。途切れていた会話が再開され、取り繕うように笑みを浮かべる者もいれば、わずかに緊張を残した表情の者もいる。

 テオバルトは表情に変化を見せず、会場を見渡しながら当たり障りのない世間話を再開した。言葉を交わしながらも、その意識は常に周囲の視線の行方を捉え続けている。

 オフィーリアに対する興味、期待、そして疑念——そのすべてが、彼女の登場を待ち望むかのように漂っている。テオバルトは、彼女が無用な負担を感じないように、会話を通じて空気を和らげ、場を整えることに集中した。


 宴もたけなわとなった頃、会場は自然と静まり返った。ジークベルトが人々の前に立つと、その存在だけで広間に緊張感が漂った。テオバルトは兄の姿に目を向け、その堂々たる姿勢にわずかに背筋を伸ばした。


「いよいよか」


 低く落ち着いた声に隣を見れば、母と同じ瞳を持つ兄が、優しい眼差しを向けている。


「今日この場に立つきみを、母上もきっと誇らしく見守っている。——堂々と行け」


 その言葉には、兄としてだけでなく、同じ時代を生き抜く仲間としての真摯な思いが込められていた。マティアスが肩に置いた手の温もりは、表面上の言葉以上に深い信頼を伝えてくる。

 ジークベルトが舞台の上から視線を送る。その冷静な眼差しには父譲りの深い翠色が宿り、観る者を自然と従わせる威厳があった。わずかに顎を引いて送られた無言の合図は、これ以上ないほど明確に「行け」と示していた。

 テオバルトはゆっくりと息を整え、表情を崩さないまま確かな足取りで扉へと向かった。肩に残る兄の温もりと、背中に感じる長兄の期待。それらすべてを支えに、テオバルトは確かな足取りで扉へと向かった。


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