第七十二話 眠る肖像、瞬く追想
「——それでは、今回はここまでにいたしましょう」
ローゼマリーの端的な言葉で打ち合わせの終わりを実感し、オフィーリアはほっと安堵の息を吐く。それほど長い時間ではなかったはずなのに、胸の奥にじんわりとした疲労感を感じる。
緊張の糸がわずかに緩みそうになるものの、それを表情には出さないよう、自然と背筋を伸ばした。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。今後もどうぞご指導よろしくお願いいたします」
「これも私のお役目ですから、お気遣いなく。何かご不安なことがあればいつでもご相談ください」
ローゼマリーの声は相変わらず静かで、言葉のひとつひとつが、まるで精密に調律された楽器のように響く。彼女の説明は理路整然としていて、必要な情報だけが過不足なく伝えられた。
質問すればすぐに的確な答えが返ってくる。その冷静さと効率の良さにオフィーリアは内心で静かな敬意を抱いていた。
応接室を出てローゼマリーに導かれるまま、オフィーリアは玄関ホールへと歩みを進めた。敷き詰められた絨毯が足音を吸い取り、響くのはドレスの裾が擦れる音だけ。
ふと視線の先、広い玄関ホールの奥で、使用人たちが大きな絵を飾っているのが見えた。古い額縁に収められたその絵はどこか懐かしさを感じさせる柔らかな色合いで描かれている。
思わず足を止めると、その数歩先でローゼマリーも立ち止まる気配があった。
「修繕に出していた肖像画が、今日戻ってきたのです」
その言葉を聞きながら、オフィーリアは肖像画から目を離せないでいた。
描かれているのは、ひとつの家族。中心の椅子に座る母親の周りを囲むように、父親と三人の息子が立っている。オフィーリアの視線は自然とその女性に吸い寄せられた。柔らかな微笑みを浮かべたその女性は、金褐色の髪と琥珀色の瞳を湛えている。その色は、いつも自分を優しく見つめてくれる人のものと同じだった。
「中央にいらっしゃるのが、アレクシア夫人です」
ローゼマリーの言葉に、小さな頷きで応える。十年ほど前に亡くなったというテオバルトの母親。その姿を見るのはこれが初めてだった。
水色のドレスに包まれた肌は透き通るように白く、どこか繊細で儚げな印象を受ける。けれどその琥珀色の瞳に宿る優しさが、愛しい人の面影そのままに胸を打った。温かな光を湛えたその瞳は、テオバルトが時折見せる穏やかな笑顔の源のように思えた。
椅子の後ろに立つヘムルートは片手をアレクシアの肩に軽く添えている。伯爵家の当主として威厳のある姿だが、その手の添え方には隠し切れないほどの愛おしさが感じられた。
長男ジークベルトは真っ直ぐに正面を見据えている。わずかに引き締まった口元には責任感の芽生えが宿り、すでに次代の当主としての自覚が窺えた。
次男マティアスは今の彼がそうであるように、親しみやすい笑みを浮かべている。彼の瞳は兄と違い、母譲りの色だ。
そして——最後の一人に目を向けた時、オフィーリアは胸の奥で小さく息を呑んだ。
テオバルトは、椅子に座る母アレクシアの隣に立っていた。濃紺の詰襟服は軍服に似ているが、肩章などの装飾は見当たらない。おそらく士官学校の制服なのだろう。
金褐色の髪は今よりも少しだけ短く、琥珀色の瞳には大人びた影が差す。けれどまだ少年の面影を残しており、大人と子供の中間に立つ、どこか不安定な魅力があった。
口元は真面目に引き結ばれ、その立ち姿にはどこか緊張感が漂っているように見えた。肖像画の中の彼は今より若く、けれど目の奥に秘めた静かな強さは変わっていない。
画家の筆によって捉えられたテオバルトの若い姿を見つめながら、オフィーリアは静かな懐かしさに包まれた。まだ見ぬ過去のはずなのに、どこか親しみを覚えるような——その感覚の正体を探る前に、背後から柔らかな声が届いた。
「昔のテオバルトは、今より少しだけ物静かに見えるでしょう?」
振り返ると、いつの間にかすぐそばにヘムルートが立っていた。素早く一礼するローゼマリーから一拍遅れて、オフィーリアも慌てて礼をとる。
「ご挨拶が遅れ、失礼いたしました」
「どうか気になさらないで。素晴らしい絵ですからね、見入るのも無理はない」
そう穏やかに微笑む彼は肖像画に描かれた若き日の姿と同じく、変わらない落ち着きを纏っている。歳月を経て深まった風格が、その眼差しに宿っていた。
テオバルトが年を重ねても、こうして優しさを失わない人になるのだろうと思うと、オフィーリアの胸に温かいものが広がった。
「夜会の打ち合わせでしたか。準備は滞りなく進んでいると聞いています」
「はい、すべて滞りなく進行しております」
ヘムルートの問いに、ローゼマリーが流れるように応える。その声には伯爵家の女主人になる者としての、揺るぎない自信が響いていた。完璧な心得と立ち居振る舞い——彼女の中に潜む強さを、オフィーリアは改めて感じた。
ヘムルートはゆったりと視線を肖像画へ向けた。その目には静かに去っていく使用人たちの姿も映っていないようだった。
翡翠の瞳に滲むのは、時が流れても色褪せることのない愛情なのかもしれない。穏やかな笑みにはほんのわずかな寂しさと、けれどそれを上回る温かな感情が込められていた。
「アレクシアも新派の出身でした。当時は今より派閥の対立が激しく、私も少なからず厳しい批判を受けたものです」
低く穏やかな声はどこか、テオバルトのものに似ていた。その声色にオフィーリアは不思議な親しみを覚える。
「それでも私はアレクシアを選びました。そして、その選択を悔やんだことは一度たりともありません」
静かな、厳かな誇りを湛えた声。オフィーリアはその姿にテオバルトの未来を見ているような気がした。
いつか彼が自分の人生を振り返った時、自分もまた、胸を張ってそう言ってもらえる存在になれるだろうか。その問いが胸の奥で小さく揺れる。
「選ぶということは、時に強い覚悟を必要とするものです」
その言葉にオフィーリアは小さく頷いた。しかしヘムルートの視線はオフィーリアだけではなく、その隣に立つローゼマリーにも向けられている。彼の眼差しには二人への同等の敬意と期待が宿っていた。
「ローゼマリー嬢。あなたもまたジークベルトと共に歩むという選択をしてくれた。そのことに、私は心から感謝しています」
「伯爵様のお言葉、恐縮です。私とジークベルトは互いに必要としあう存在です。これからも伯爵家の名誉を守ることを私の第一の責務と心得ております」
一分の隙もない完璧な返答を述べるその声に、迷いの色はない。
その冷静さはまるで彼女自身を守る鎧のようでありながら、言葉の奥には確かな決意が宿っていた。その姿に、オフィーリアは新たな尊敬の念を抱いた。
「ジークベルトは家の伝統を守ることを何より重んじる、誠実な息子です。彼にはそんな堅実な背中を支える強さが必要でしょう」
翡翠の瞳が、今度はこちらへと静かに向けられる。その眼差しに、オフィーリアは胸の内で小さく震えた。
「テオバルトは自らに最も厳しく、時に理想を追いすぎる傾向がある。しかし彼の目指す先は決して間違ってはいない。その理想が独りよがりではないと、気づかせてあげてほしい」
どちらに向けられた言葉も、押し付けがましくなく、ただ確かな信頼と願いを込めたものだった。
「彼ら二人がそれぞれの道を歩む中で、あなたたちが支えになってくれることを願っています。そして、あなたたち自身も、自分の選んだ道を誇りに思えるように——」
ヘムルートの言葉が静かに空気に溶けていく中、オフィーリアは胸の奥で小さな灯がともるのを感じていた。肖像画に描かれたアレクシア夫人の優しい瞳、ヘムルートの変わらない愛情、そしてローゼマリーの凛とした姿——どれもが、この家を支えてきた確かな存在だ。
自分も、その一員として認めてもらえるだろうか。お披露目の場で、胸を張ってテオバルトの隣に立てるだろうか。
ヘムルートの言葉が胸に染み込み、静かな決意がオフィーリアの中に芽吹いていく。
まるで、初夏の陽だまりの中で、小さな蕾が静かに花開くように。




