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第七十一話 映る影、重なる面

 伯爵邸の応接室で、ローゼマリー・ヴァレンシュタインは手元の資料に落としていた視線を持ち上げ、向かいに座る男は目を向けた。

 この国の貴族で、彼の名前を知らない者はいないだろう。旧派の名門伯爵家の三男にして、北方交易路を立ち上げた功績から侯爵位を賜り、外務卿の地位に就き、そして今は平民との婚約が取り沙汰されている——テオバルト・グレイヴ・レーヴェンハースト。

 その婚約者である平民オフィーリアとの婚約発表は伯爵家主催の夜会で行われる。シュルテンハイム侯爵家に名を連ねるのはテオバルトのみ、生家のレーヴェンハースト伯爵家は長らく女主人がいない。

 となれば、当主ジークベルトの婚約者である自分にその役割が回ってくるのは当然のこと。引き受けることに躊躇はなかった。


「……何か気掛かりな部分がございますか?」


 夜会に関する資料からテオバルトがあまりにも目を離さないもので、思わずそう声をかけた。テオバルトは周囲の静けさを乱すことなく、穏やかな笑みを浮かべながら顔を上げる。


「失礼いたしました。少し考え事をしておりまして。特に問題はありませんので、このまま進めていただければと思います」


 琥珀色の瞳は相変わらず柔らかな光を宿しているが、その奥に隠された考えは容易には読み取れない。

 それでも先日の夜会では理不尽な挑発を受け、わずかな激情を覗かせていた。いつも冷静な彼の頬に浮かんだ怒りの色は尚もローゼマリーの胸に小さな驚きを残したままだ。

 テオバルトが手にしていた資料には招待客の一覧が記されている。そこにはもちろんグローズベルグ公爵の名前もある。公爵にとっては新派の貴族さえ見下すべき存在なのだから、平民が貴族社会に入り込むことなど到底受け入れられないはずだ。

 再びあの傲慢な老人を前にしても、彼は冷静でいられるのだろうか。そんな懸念が頭をよぎる。


「改めて、婚約発表の準備を引き受けてくださり感謝しています。ローゼマリー嬢のお力添えがあれば、きっと素晴らしい場になるでしょう」

「ご期待に添えるよう、精一杯務めさせていただきますわ。オフィーリアさんにとっても大切な機会ですものね」


 ——オフィーリア。彼女がエリザベート夫人の茶会に姿を見せた日から、社交界でその名前を聞かない日はなかった。耳に届く噂はどれも鮮やかで、彼女の一挙手一投足が細かく語られていた。

 とはいえそれは、必ずしも好奇心だけの産物ではない。結婚すればオフィーリアは義理の妹になる。そのことへの皮肉が言葉の端々に混じっていた。

 『せっかく名家との婚約がまとまったのに』という隠された同情。だが、今更、そんな言葉に傷付くことはない。


「オフィーリアさんの準備は順調に進んでいるようですね。社交にも積極的な姿勢を見せていらっしゃるとか」

「お褒めいただきありがとうございます。ローゼマリー嬢にも、ぜひ温かく見守っていただければと思います」


 テオバルトの声は慎重に選ばれた言葉で満たされていた。その丁寧さの裏に潜む緊張が、ローゼマリーの胸に小さな波紋を広げる。

 テオバルトの言葉や態度、そのすべてから婚約者を守ろうとする意志が見え隠れしていた。多忙な中でも何度も足を運ぶ姿に、彼の本心が透けて見えるよう。政略結婚ではないという噂も、はあながち嘘ではないのかもしれない。


「もちろんです。ただ、社交界の目は厳しいものですから……彼女がその場に立つだけの準備ができていることを、私も確認させていただきます」

「ええ、それは当然のことです。彼女は既に多くの努力を重ねてきましたので、きっと大丈夫だと信じています」


 テオバルトの言葉は、一切の曖昧さを含まない断言だった。彼の表情は微動だにせず、声色にも揺らぎはない。彼がオフィーリアに寄せる信頼の強さを、その声の硬さから伝わってくる。


「次回の打ち合わせでは、オフィーリアさんとも直接お話させていただこうと思いますが、ご都合はいかがでしょう?」


 そんな彼が、批判されることも承知の上で選んだ女性がどういう人物か、興味がないと言えば嘘になる。ローゼマリーはどこか楽しみにも思いながらテオバルトにそう尋ねた。


 ◇


 訪れるのは二度目となる伯爵邸の応接室で、オフィーリアは冷えた指先に力を込めた。婚約発表の夜会を取り仕切ってくれるローゼマリーの元へテオバルトと共に訪れたはずだったが、彼は急な公務のため途中で退席し、今は二人きり。室内に控える使用人たちの静かな存在が、むしろ部屋の緊張感を高めているように感じられた。

 向かいのソファに座るローゼマリーの深緑の瞳には涼やかな光が宿り、微笑みは控えめながらも優雅さに溢れていた。濃灰色の髪はきっちりとまとめられ、その佇まいには理知的な美しさが漂っている。年齢の近さを知りながらも、その落ち着きに一種の畏れのようなものを感じずにはいられない。

 自分も彼女のように、この世界に溶け込めるのだろうか。そんな問いが胸の奥でささやかに揺れている。


「今回の夜会では、あなたの振る舞いが多くの方の目に触れることになります。すべての方が好意的な態度ではないでしょう。どうかそのことはお忘れにならないように」


 オフィーリアはそっと背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべた。胸の奥で高まる緊張を隠すように、呼吸を整える。


「皆様に良い印象を持っていただけるよう、精一杯努めます」


 その言葉に偽りはない。テオバルトの婚約者として初めて公に紹介される場で、オフィーリアは自分がこの場に相応しい人間であることを証明しなければいけない。

 大袈裟ではなく、招待客のすべての目が自分に向けられるのだ。その期待に応えられなければ、きっとこの先、貴族社会に自分の居場所はない。それでも、背を向けるつもりはなかった。 

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