第七十話 煌めく星、紡ぐ夢
テオバルトはいつでも詰襟の服をきっちりと着こなしている人だ。襟元のボタンひとつさえ、決して乱れることはない——はずなのに、今はその小さなボタンが外されている。開いた襟元からかすかに見える喉元が、いつもより少しだけ無防備に感じられた。
どうしてだろう。それが彼の余裕のなさをそっと映し出しているように見えた。そのことに気づいた瞬間、オフィーリアの胸に静かな記憶が蘇る。二人の関係に初めて名前がついた、あの朝のこと。いつも凛とした彼が、あの時もやはり少しだけ余裕のない姿を見せていた。
(今も……そうなのかしら)
その横顔をそっと仰ぎ見る。テオバルトはふと目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。彼の胸がわずかに上下するのが見え、夜風がその肩を軽く撫でていく。
まるで、心の中に絡まった糸を少しずつ解くように、言葉を探しているようだった。その仕草のひとつひとつが、普段の彼からは想像もつかない脆さを湛えていて、それがオフィーリアの胸を優しく締め付ける。
「……あなたのような方が私のそばにいてくれることが……今でも信じられないくらいです」
彼の声は穏やかで、けれどその裏に、ほんのわずかに揺らめく影が見える。いつも、何もかもを見通しているような瞳が、今はほんのわずかに迷いを映しているようだった。
その弱さが、彼をより人間らしく、より愛おしく感じさせたる。
二人の間を夜風が通り抜け、庭の花々が揺れた。その静けさの中でテオバルトの肩がほんの少しだけ緩んだのを、オフィーリアは見逃さなかった。夜風にそっと息を溶かすように、オフィーリアも静かに呼吸を整える。
「……ではひとつ、思い出話をしましょうか」
琥珀色の瞳に映る月明かりは、どこか遠い記憶を辿るような色をしていた。その瞳の奥に広がる記憶の景色を共にできたらとオフィーリアは願った。
そしてテオバルトは静かに口を開く。その言葉がオフィーリアの心を優しく揺り動かすことも知らずに。
「四年前、実は私もあの劇場であなたの歌を聴きました」
その言葉に、夜の静寂がふっと息を潜めたように感じた。
「外務省に転属するかを悩んでいた時期でした。父に、気晴らしにと誘われて。あなたの歌はとても……本当に素晴らしかった」
彼の過去が、自分と重なった瞬間が確かにあったのだと知って——胸の奥がふわりとほどけるような感覚が広がった。目の前で紡がれる言葉が、楽譜の旋律よりも深く、心の一番奥に染み渡っていく。
嬉しいとも、恥ずかしいとも違う、まるで夢の中にいるような、甘くて繊細な感情が押し寄せてくる。それは、花の蜜が舌に広がるように優しく、星の光がそっと降り注ぐように静かな喜びだった。
「あの日のことはよく覚えています。あなたは薔薇色のドレスを着ていた。私の目には、緊張しているようには見えませんでした。たった一人でも、あなたは堂々と舞台に立って歌っていた」
テオバルトの記憶の中で、自分の姿がこんなにも鮮明に残されていることに、胸が震えた。
もしかしたら、そうかもしれないとは思っていた。彼がエストリエの王宮に出入りしていないなら、オフィーリアの歌を聴ける場所は限られている。
彼はどんな思いで、自分の歌を聴いていたのだろう。彼の迷いを晴らす手助けができたのだろうか。あのとき、彼の胸にどんな感情が生まれていたのか——ただ、知りたかった。
「……でも、どうして、今まで教えてくださらなかったのですか?」
あの劇場の前を二人で通りかかったとき、オフィーリアは確かに話した。あの場所でどんな歌を歌い、どんな景色を見ていたのかを。
彼は静かに頷き、優しく微笑んでくれたけれど、何も言わなかった。でもその裏に、実はこんな素敵な秘密が隠されていたなんて。
「歌はあなたにとって、喜びでもあり、苦しみでもあったでしょう。だから、あのときは……私の言葉が重荷になってしまうのではないかと、迷ってしまいました」
オフィーリアの過去に寄り添い、無理に踏み込まないその慎重な優しさは、初めて出会った時からずっと変わらない。
季節が変わっても色褪せない花のように、いつも静かに咲き続けている。それがオフィーリアの心を包み、癒してくれる。
「……テオバルト様の、そういうところが好きです」
オフィーリアの言葉に、テオバルトの瞳がわずかに揺れた。月明かりに照らされたその横顔は、どこか照れくさそうで、それでも優しく微笑んでいるように見えた。いつまでもこの人と一緒にいたい——そのために自分がやるべきことは、もうわかっている。
風が静かに吹き抜け、自然に垂らしたままの髪を揺らしていく。その動きに合わせるように、オフィーリアも小さく息を吸い込んだ。
胸に秘めた想いを言葉にするのは得意であるはずなのに、今は少し難しい。多分、きっと、あの舞台に立った瞬間より、緊張している。オフィーリアはそっと膝の上で指を絡めた。
「お披露目のことは、少しだけ怖いです。でも、テオバルト様がそばにいてくださるなら、きっと大丈夫だと思っています。……いつか、舞踏会でテオバルト様と踊れるのが楽しみです」
夜風が運ぶその言葉は、オフィーリアの心からの願いだった。不安はある。けれどテオバルトが導いてくれる道を歩むうち、少しずつ、確かな自信のようなものも感じていた。
かつての自分には想像もできなかった景色が、今は目の前に広がっている。それは彼が差し出してくれた手があったからこそ。
テオバルトは一瞬、何かを考えるように視線を彷徨わせ、そしてゆっくりと立ち上がった。月明かりの下で、その姿はいつにも増して凛々しく見えた。高く伸びた背、広い肩幅、全てが月光を受けて美しい。
「それなら、少しだけ練習してみましょうか」
気取った仕草で腰を折り、右手を胸に当てながら胸に手を当て、軽く膝を折って貴族風の優雅な礼を示した。こんな格式ばった誘い方も、彼がやるとどうしてこんなにも絵になるのだろう。
その一挙手一投足に宿る貴賓は、生まれながらの貴族の血によるものではなく、彼自身の内側から滲み出る美しさだった。
「オフィーリア嬢。月の光が照らすこの庭で、一曲お相手いただけますか?」
彼の琥珀色の瞳には冗談めいた光が宿りながらも、どこまでも真摯だった。その眼差しの奥に宿る想いは、自分だけに向けられる特別なもの。
「まあ、まだ酔いが残っているのかしら。でも——喜んでお受けいたします」
軽く笑みを浮かべながら、その手を取る指先は自然と力が込もる。基礎は学んでいるものの、講師以外と踊るのは初めてだった。それでも、彼の手に導かれるなら何も怖いことはない。
手を引かれて石畳の小道を抜け、少し開けたところまで出ると、テオバルトはゆったりとした動きでオフィーリアの身体を引き寄せる。包み込むような腕の感覚に、思わず息を呑む。あとは、その腕にすべて任せてしまうだけでよかった。
「こんなふうに星空の下で踊るなんて……まるで夢の中にいるみたいです」
オフィーリアの囁きに、テオバルトの動きがほんのわずかに緩んだ。自然と視線が絡み合い、夜風の中でも琥珀色の瞳がまっすぐに自分を映しているのがわかる。その瞳は、頭上に広がるどんな星々よりも美しく、静かに輝いていた。
「夢ではありません。あなたがいてくれる限り、間違いなく現実です」
その言葉と共に、腰に回るテオバルトの腕にほんのわずかに力が込められる。想いの深さを伝えるのにはそれだけで十分だった。
彼の鼓動が、静かな夜の中で優しく響いている。すべてが息を潜めた世界の中で、テオバルトの瞳に映る自分だけが、確かな今を映していた。




