第六話 静かな決意
テオバルトは執務室で一人、積み上がった書類の前に座っていた。机上の蝋燭は安定した光を投げかけているが、テオバルトの視線はその炎に留まることなく宙を彷徨っている。
扉を叩く音に返事を返せば、クラウスが書類を片手に入ってくる。受け取った書類に軽く目を通すと、テオバルトは思わず「またか」と呟く。北方使節団からの要望書には前回と同じ内容が並んでいる。
「関税の引き下げ」「管理権の共有」「北方商品の優先権」——交易路の完成から一年半、北方使節団からの突然の要求はあまりにも強引だった。
当初は商務省が対応していたが、解決の糸口も見えないことから、テオバルトは窓口を外務省に移した。これは単なる交易条件の調節ではなく、より複雑な外交問題に発展しているという判断からだった。
北方使節団の代表、ヴォルフラム・リンドベリの冷ややかな笑みが脳裏によぎる。北方連合の中心たるアルスガード公国の男爵という、さほど高くない身分の男が代表に就いた意図は気になるところだった。
己の地位を高めるためか、北方連合内での競走か、それとも別の思惑か——一抹の疑惑が胸をよぎるも、まだ憶測の域を出ない。
北方交易路構想の総指揮をとったのは他でもないテオバルトだが、各所との交渉に当たるうえで特に重視したのは、軍事的な利用を禁止する条約だった。
交易路の管理権と警備権をラウレンティアが単独で持つことは明文化した。それは平和的な交渉の場を守るため、絶対に譲れない一線でもある。
北方連合は軍事力を背景に、周辺諸国を圧迫してきた歴史がある。管理権の共有など検討の余地もないことだ。
「こんなふざけた要求が通ると、本気で思っているわけではないだろう」
だとしたら何か裏があるのかもしれない。交渉を長引かせることが目的なのだとしたら少々厄介ではある。
テオバルトは息を吐きながら、書類を机の上に置く。
クラウスが小さく笑うと、「では話題を変えましょう」と切り出した。
「お嬢様のご様子について報告いたします」
その言葉に、テオバルトは自然と視線を持ち上げた。
「やはりお疲れのようでした。夕飯後、湯浴みをしてすぐお休みになられたそうです。——こちらは侍女経由でお嬢様から預かりました」
そっと机の上に置かれたカードを素早く手に取り、目を通す。
『あたたかいご配慮に感謝いたします。おやすみなさいませ』
女性らしい丸みを帯びた美しいその文字に、テオバルトは思わず目を細めた。短い文章の中に、オフィーリアの繊細さと、同時に秘められた強さが表れているようだった。
「リアが、これを……」
夕食の席で見せた、緊張に震える姿を思い出す。青白い顔色に痩せた体は、幽閉生活の過酷さを雄弁に物語っていた。ずっと顔を伏せ、怯えた様子で食事をしていたオフィーリアの姿は、テオバルトの胸に鈍い痛みを残した。
しかし、侍女が水をこぼしたときの対応は印象的だった。紙と鉛筆を取り出す仕草は驚くほど優雅で、『お気になさらず』と書く指先には迷いがなかった。その一瞬の気遣いに、テオバルトは彼女の本質を見た気がした。
しかし自分が近付いた途端、その手は再び震え始める。差し出したハンカチを受け取る時、一瞬だけ視線が合った。夕闇が迫る空のように、紫を帯びた瞳。深い傷の奥に、まだ確かな光を宿している——
「お嬢様は特に男性に対して強い恐怖を示されているようです」
クラウスの静かな声に、テオバルトは目を伏せた。
「緊張だけではないだろう」
「はい。あの怯え方は……」
言葉を濁すクラウスに、テオバルトは軽く頷いて答える。対面した時間は短くとも、その異常さを感じ取るには十分だった。
彼女の状態について、エステリエからの説明はあまりにも曖昧だった。精神的な疾患で声を失ったとしか伝えられず、それ以上の詳細は伏せられたまま。
深い事情を隠しているのは明らかだったが、テオバルトは追及しなかった。なによりも優先するべきは、オフィーリアをあの場所から連れ出すことだったからだ。
(男性恐怖は、彼女が生来持ちえた特性ではない)
テオバルトは無意識にペンを指先で転がしながら、思案に沈む。
何かがオフィーリアの心を深く傷付けたことは間違いない。だが、それが具体的に何であるかを詮索することは避けるべきだ。自分の好奇心や憶測で彼女を追い詰めてはならない。
「……彼女が落ち着くまで、直接の世話はベルナに任せようと思う。私もあまり顔を合わせないほうがいい」
そう語る声にはどこか寂しさが滲んでいた。オフィーリアを守りたいという強い思いと、それ故に距離を置かなければならないという矛盾した感情が胸の中に渦巻いている。
クラウスは黙って頷く。
「些細なことでも構わない、報告は細かく上げてくれ。私が不在のあいだ、彼女が健やかに過ごせるよう最大限の配慮を頼む。リアに必要なことであれば、何をするにも私の許可を取る必要はない」
「ご自身で直接お話しされるのが一番かと思いますが、今のお嬢様にはそれも難しいかもしれませんね」
「そうだ。無理に近付けば、余計に追い詰めることになる。それだけは避けたい」
「かしこまりました」
そう言ってクラウスが退室する。
再び静寂が満ちる中、テオバルトは椅子に背を預け、目を閉じた。
銀月の歌姫——その名は国境を超えて轟いていた。
しかし二年前に彼女が姿を消してから、人々の口にのぼるのは、もはや残酷な噂話だけだった。
『王は興味を失った歌姫を、離宮に幽閉したそうだ』
『あの離宮は罪人を閉じ込めるためのものなのに』
『もう二度と歌うことはできないらしい』
その噂の真偽を確かめた時、テオバルトは決意を固めていた。
テオバルトはあくまでも個人的な話であると前置きして、エステリエの王にオフィーリアを妻に迎えたいと願い出た。王は既に政治的な価値もなく幽閉しているだけの歌姫を躊躇うことなく差し出した。
隣に立つ宰相は理解できないとばかりに眉を顰めていた。
『あの娘はもう話せず、歌えず、何の価値もありません。本当によろしいのですか?』
その言葉に胸が痛み、同時に吐き気を覚えた。そうした悪意や侮蔑が少しずつ彼女の尊厳を削り取っていったのだと思うと、怒りさえ込み上げてくる。
(——しかしリアにしてみれば、私も彼らと同じようなものか)
見ず知らずの男との結婚。それが彼女にそれだけの負担を与えているかは想像に難くない。この話は敢えてオフィーリアの意思を問わない形で進めた。それが最善だったからだ。
しかし結婚など、オフィーリアをあの場所から連れ出す建前に過ぎない。今はただこの屋敷で静かに心身を休めてほしい。先のことを考えるのはそれからで十分だ。
今頃オフィーリアはどんな夢を見ているだろうか。それが少しでも穏やかなものであればいいと、願わずにはいられなかった。