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第六十九話 揺蕩う花、宿る宵月

 その夜、テオバルトの帰りは遅かった。帰りを待ちたかったものの、一度倒れてしまった身としてはベルナに「もうお休みください」と強く促されると逆らえず、オフィーリアの姿は寝室にある。

 しかし心が落ち着かず、眠る気にはなれない。夜着に着替えもしないまま、オフィーリアは部屋から続くテラスに出た。

 彼女たちの言葉、自分の返した言葉——探るような視線、乾いた笑み。どれも胸の奥に小さな棘を残していた。あのやりとりも、いつかは彼の耳に届いてしまうだろう。そのとき、テオバルトが何を思うのか——考えるほどに、小さな棘が胸の奥で疼いた。

 月の光を浴びた庭園を見渡すと、庭の木々の間に人影があった。


(——テオバルト様だわ)


 まるで風が鈴を鳴らすように、心臓が小さく高鳴る。背筋を伸ばした立ち姿は、この距離からでも一目で彼だとわかる。庭に降り注ぐ月光が彼だけを照らしているかのように、その姿が闇の中で浮かび上がっている。

 オフィーリアは迷わず部屋へ戻った。肩にショールを羽織り、そっと廊下に滑り出る。大理石の階段を下りる足音さえ月の光に飲み込まれていく。足音を立てないよう、できるだけそっと近づいた。

 しかし、テオバルトはすぐにこちらに気付いた。振り返る姿勢に軍人としての鋭敏さが残っているようだった。一瞬、彼の眼差しは鋭く光ったが、オフィーリアの姿を認めると、その表情は途端に柔らかな微笑みに変わる。


「どうされたのですか、こんな夜更けに」


 テオバルトは穏やかな声でそう言い、当たり前のように手を差し出した。その手を取ることに、今はもう一瞬の躊躇いもない。むしろ、その手に触れたいという欲求だけが胸を満たしていた。


「眠る前に、テオバルト様のお顔が見たくて」


 自分でも思いがけないほど素直な言葉が、唇からこぼれた。


「……いけませんでしたか?」


 テオバルトはきっと優しく受け入れてくれる。そう確信しながらわずかに上目遣いで甘えるように問いかけた。こんなにも幼い仕草が自然に出てしまうことにオフィーリア自身も少し驚く。

 テオバルトの目尻が緩み、薄い唇が弧を描く。その瞳に宿る柔らかな光が、月明かりよりも確かな輝きを放っている。


「夜更かしはいけないと言うべきなのかもしれませんが……あなたからそんな言葉をいただけるのは、正直、嬉しいです」


 少しだけ照れたような、その言葉に込められた真摯さが、オフィーリアの胸の奥をそっと温かくする。


 月明かりの下で、その顔がいつもより少し赤みを帯びていることに気がついた。彼の息にもほのかな香りがする。けれどそれは、もう恐怖とは結び付かなかった。


「……お酒を飲まれるのは、珍しいですね?」


 少なくとも彼が酔っている姿を見るのは初めてだった。屋敷では食前酒さえ口にしない彼が、今宵はなぜ。その理由を知りたいという思いは、彼のすべてを知りたいという願望の一部なのだとオフィーリアは気付いていた。

 二人はどちらからともなく庭を進み、並んでベンチに腰を下ろした。庭の花々が、昼間とは違う静かな香りを放っている。


「元々、好んでは飲みません。……今夜はつい」


 背凭れに寄りかかり、だから夜風に当たっていたのだとテオバルトは言った。その姿には、普段なら決して見せないだろう無防備さがあった。

 彼が公務とは関係なく純粋な私用で社交の場に出向くのは珍しいことだとクラウスが言っていた。確か主催はグローズベルグ公爵——旧派の中でも特に貴族の血統を重んじる人物だと聞いていた。

 オフィーリアはわずかに眉を寄せた。自分が今日サロンで経験したことを考えると、胸が騒ぐ。外務卿という地位にあっても、それがすべての悪意や批判から彼を守ってくれるわけではないはずだ。むしろ、だからこそ——


「……私のことですか?」


 その問いが夜風に乗って耳に届いた時、テオバルトは一瞬だけ沈黙した。きっとその短い間に、彼の中で何かが整理されたのだろう。月明かりの下、彼の表情が真実を伝えようとするように揺れているのがわかった。


「ええ、少しだけ」


 その誠実な応えが胸に刺さる。静かな闇の中で、痛みが波のように広がる。自分と同じような、或いはもっと苛烈な批判を彼も受けているのだと思うと、それだけで胸が痛んだ。

 これまで彼が築いてきた信頼や名誉、そうしたものを、自分はただ壊していくばかりなのかもしれない。しかし、テオバルトはオフィーリアの思考を読み取ったかのように、優しく続けた。


「しかしそれは、あなたのせいではありません。もし誰かが私に何か言ったとしても、それは私の選んだ道への意見です。私自身の選択に対するものですから、あなたが気にすることではないのです」


 言葉と共にそっとテオバルトの手が伸びてきて、オフィーリアの手を包むように握る。その手の温もりが心の奥まで染み渡っていく。


「それよりも、あなたのほうがお疲れではありませんか。まだ気を遣うことも多いでしょう」


 テオバルトの声は優しく、気遣うように少しだけ低く響いた。忙しくてすれ違いの生活を送ることもある中で、それでもこうして気にかけてくれることが嬉しい。どうして彼はいつも自分の心を見透かすように理解してくれるのだろう。


「……今日はテオバルト様のお話をたくさん聞きました。士官学校は主席で卒業されて、軍服姿はとても凛々しくて、若い令嬢なら誰もが一度はテオバルト様と踊ることを夢に見るそうです」


 改めて言葉にすると、胸の奥がじわりと疼く。彼女たちの口から語られるテオバルトの姿は、オフィーリアの知らない一面ばかりだった。彼の軍服姿に憧れ、踊ることを夢見る令嬢たちの声には、確かな想いが滲んでいた。

 わかっている。彼ほどの人ならば、誰かに恋慕の情を抱かれていても不思議ではないと。それでも、自分の知らない彼を知っている彼女たちが、ほんの少し羨ましいと思ってしまう。

 サロンではそんなことを考えもしなかったのに、今こうしてテオバルトの隣にいると、ますますその思いが膨らんでいく。

 彼の静かな声、月明かりに照らされた横顔、触れ合う手の温度——自分だけが知っているこの瞬間が、いつまでも続けばいいと思ってしまう。こんな嫉妬の感情にさえ、まるで蜜のような恋の味が滲んでいる。


「物語というのは、往々にして美化されるものですからね」


 言葉を口にした瞬間、テオバルトの瞳に一瞬だけ影が落ちた。柔らかな光が彼の横顔を照らしているのに、その中で彼の表情はまるで薄い霧に覆われたように曖昧に見えた。

 何かを隠そうとするような、でも完全には隠しきれていない、そんな儚さが滲んでいる。


「社交界の噂など、いい加減なものです」


 彼はふと視線を落とし、口元にわずかな苦笑を浮かべた。


「誰かが語る物語が、必ずしも真実を映しているとは限りません。私にも、あなたにとって期待外れな部分があるかもしれません」


 テオバルトの声は穏やかで、けれどどこか自嘲するような響きを帯びていた。いつもの静かな笑みの奥に、見えない影が潜んでいるようだった。


「……テオバルト様が噂通りの『理想の殿方』でなくても構いません。例えどんな人であっても、私はあなたのことを好きでいられると思います」


 オフィーリアの言葉に、夜の空気が静かに張り詰めた。彼の瞳がわずかに揺れ、胸の奥で何かが震えたように見えた。まるで誰にも見せたことのない姿を、初めて光に晒されたような、そんな表情。

 風が二人の間を通り抜け、庭の花々がそっと身を揺らす。言葉にならない感情が、夜の闇に溶け込んでいく中で、オフィーリアはただ静かにテオバルトの言葉を待った。

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