第六十八話 静かに凍り、深く澄む
サロンには紅茶の香りと甘やかな笑い声が満ち、茶器の触れ合う音が心地良く響いていた。
その話題は、いつの間にかテオバルトの姿や振る舞いへと移り変わる。オフィーリアはその会話の輪に加わることなく、ただ耳を傾けていた。
新旧の派閥関係なく集まった令嬢たちはオフィーリアを招き入れるつもりはなさそうで、ただ時折意味ありげな視線を送ってくる。それでも、彼女たちが語る自分の知らないテオバルトの姿に、オフィーリアは興味を引かれていた。
軍の式典での勲章授与、王国大使を迎えた夜会、大公主催の大舞踏会——オフィーリアにとっては未知の世界、彼女たちにとっては思い出の宝石箱から取り出すような、輝かしいテオバルトの姿。
「軍服をお召しになったお姿の、凛とした佇まいといったら……まるで騎士道物語から抜け出してきたかのようでしたわ」
あの時の立ち姿が、視線の集め方が、どれほど見事だったか。普段は社交の場に積極的ではなくとも、避けられない公の場では否応なく注目を浴びていたこと。舞踏会では決まって年上の既婚女性をエスコートし、独身の令嬢たちには決して期待を抱かせぬよう、常に慎重な距離を保っていたこと。
その慎ましく冷静な振る舞いがかえって彼を手の届かぬ理想として印象付けたのだ、と。社交の華たる令嬢たちが夢を見ずにはいられぬ存在としてどれほど彼が特別だったかを、言葉の端々から感じ取ることができた。
オフィーリアは静かにカップを持ち上げた。湯気が立ちのぼり、ほのかに紅茶の香りが鼻をくすぐる。その香りの奥で、彼女たちの言葉が細く重なり合っている。けれどその中に、オフィーリアが日々触れているテオバルトの姿はなかった。
これほどまでに完璧で魅力的な男性なのだから、きっと豊かな恋愛経験があるのだろうと、オフィーリアは想像していた。
彼の誠実さは疑う余地もないが、あの余裕ある立ち振る舞いは洗練された社交経験の賜物であるはず。年齢を鑑みれば過去に婚約者がいても不思議ではなく、誰かを深く愛した記憶もあるのかもしれない。
しかし彼女たちの会話を紡ぐ糸を辿れば、テオバルトはむしろ女性との距離を慎重に保ち続けてきたようだった。数多の縁談を丁重に辞し、特定の令嬢と親密になるようなことも決してなかったと。誰も深く踏み込めなかった領域に、今、確かに自分がいる。
オフィーリアはカップを傾けながら、そっと左の薬指をなぞった。わずかな紫を帯びた蒼玉に、窓から差し込む陽光が宿る。自分の瞳の色に似た宝石を、わざわざ選んでくれた。単なる装飾品ではなく、テオバルトが与えてくれた愛の証。
あまり過去を語らない人だけれど、これまで誰にも見せなかった部分を、自分には確かに開いてくれる。毎朝、手ずから交換するサロンの花々。自分の名前を呼ぶときの優しさを湛えた声音。何気ない仕草に宿る、深い愛情。社交界の憧憬の的ではなく、自分の傍らに存在する、確かな現実。
思えば不思議な巡り合わせだった。すべてが愛からはじまったわけではない。それでも今、テオバルトが向けてくれる愛は——紛れもなく真実だ。
指先までじわりと熱を帯びるような感覚に、胸がふるえた。それは温かさであり、安らぎだった。
ふと、周囲の空気の緊張を感じる。軽やかに交わされていた談笑が、いつの間にかわずかな緊張を孕み始めている。令嬢たちの視線がちらちらとこちらへ向けられていた。その瞳に宿るものは好奇心ではなく、嫉妬に近い何かかもしれない。
「オフィーリアさん」
不意に名前を呼ばれる。正面に座る旧派の侯爵令嬢が、まるで蜜の中に針を忍ばせるような笑みを浮かべながら問いかけた。
「もしかして……テオバルト様の過去については、あまり詳しくお聞きになっていないのかしら」
「はい。皆さまほど多くは知りません」
——けれど、それがどうしたと言うのだろう。
オフィーリアは微笑みながら応じた。優雅さを装いながらも、その視線は逸らさない。
「私が親しく存じ上げているのは、今この瞬間のテオバルト様ですもの」
「……まあ、そうでしょうね」
薔薇色のドレスに身を包んだ伯爵令嬢が微笑んで言う。彼女は新派の家柄だ。隣に座る令嬢と視線を交わしながら、その目は獲物を狙う猫のように鋭く光っていた。
「今も侯爵様のお屋敷に滞在されているとか。平民の方にとっては、未婚のまま殿方の屋敷に住まうこともさして特別なことではないのでしょうね?」
「どうやって侯爵様の心を射止めたのか、教えていただきたいわ。決して豊かとは言えないお体付きですし……あの歌声に何か不思議な力でもあるのかしら?」
窓から差し込む陽光がカップの金彩に触れ、刹那の輝きを放った。冷たい言葉の刃が空気を切り裂いたその余韻の中で、オフィーリアはかすかに息を飲む。それは侮辱であり、挑発であり、試金石だった。
そっと左手に目を落とす。その煌めきに背中を押されるように、オフィーリアは微笑んだ。指先に宿る温もりは、決して疑うことのない確かなもの——それを想うと、不思議と心は静かに澄んでいく。今、この瞬間だけは、歌うように言葉を紡ぎたかった。
「まあ——」
一語に込められた響きが、サロン全体に広がる。
「テオバルト様が、未婚の乙女に不埒な振る舞いをするような方だと、そうお考えなのですね」
言葉の間に静寂が広がる。その沈黙は凍えるように冷たく、しかし透明で美しかった。
歌えなくとも、自分の思うように声を操ることは難しくない。むしろ言葉だけでこそ、伝えられる真実がある。
テオバルトは誠実な人だ。オフィーリアの名誉を傷付けるような真似は絶対にしない。自分のことなら何を言われても受け止められる。けれど、彼の品位までも侮辱するような物言いだけは許せなかった。
「私は大公閣下のご配慮により、テオバルト様の屋敷に滞在を許されております。それを、そのような穿った見方をなさるのは——」
言葉の途中でそっと睫毛を伏せながら、オフィーリアは静かに言葉を紡ぐ。
自分の声が、表情が、相手にどのように響いているか、まるで俯瞰しているかのようにわかる。刃は向けるばかりではないのだと、オフィーリアはまっすぐに相手を見据えた。
「——大公閣下のご判断をも疑うような不敬ではございませんこと?」
透明な氷のような、冷たい沈黙が満ちる。サロンの空気が一瞬凍りついたようだった。その中で、オフィーリアだけが微笑んでいる。まるで冬の花に咲く一輪の花のように。
「貴重なお話の数々、心より感謝申し上げます。テオバルト様の周りにこんなにも多くの教養深い方々がいらしたこと、よく理解できました」
一瞬、言葉を投げかけてきた令嬢たちの表情が揺れる。それを見届けながら、オフィーリアはふと、静かに心の中で息を吐いた。なだらかな安堵と、小さな勝利感が胸に広がる。
それでも緊張の糸を緩めることなく、オフィーリアはテーブルを囲む一人一人をゆっくりと見回す。彼女たちの表情に宿る動揺は、わずかながらにもまだ残っている。
「皆さまが語るテオバルト様は、きっと理想の殿方だったのでしょう。けれど、私が知る彼もまた、かけがえのない方です」
自分の言葉が、静かな波紋となって広がるのを感じる。
「ですが、それでも今、テオバルト様がお側に置いてくださるのは私なのです。それが、何よりの答えではなくて?」
オフィーリアは静かに微笑む。テオバルトへの愛を、誇りを、確信を込めて。その微笑みに嘘はなかった。
言葉を投げかけた令嬢たちの表情が硬直する。ぎこちなく笑みを浮かべたまま、誰もがそれ以上の言葉を紡げないでいる。
その沈黙を破ったのは、カップをそっと置く音だった。
「まあ、皆さま」
穏やかに響く声に、視線が自然と向かう。
クラリスが静かに微笑みながら、ゆったりとカップを手放していた。
「さすがに、少し言いすぎではなくて?」
まるで何気ない世間話の続きをするかのような、落ち着いた口調だった。しかしその一語一語に込められた重みはその場の誰もが感じ取っていた。まるで見えない鎖が一気に緩むような、不思議な解放感。
その優雅な仕草に、オフィーリアを囲んでいた令嬢たちは思わず身じろぐ。サロンの中で、彼女の言葉は絶対的な力を持っていた。
「こうして新しい方と交流するのも、大切なことです。けれど……必要以上に熱心になりすぎるのは、あまり美しくありません。私たちは皆、貴族としての品位を大切にする身。お忘れになりませんように」
笑みは柔らかいまま、しかしその視線は冷ややかだった。それまで余裕を持っていた令嬢たちが、わずかに視線を落とす。
「別に悪気はなかったのよ。ただ、気になっただけですわ」
誰かが軽く肩をすくめて、場を取り繕うように言った。
「ええ、もちろん」
クラリスの微笑みは変わらない。まるで舞台の幕が降りるように、彼女の一言でこの試しの場は終わったのだ。
その場の空気が緩やかに変わる。先ほどまでの優雅な圧迫感は薄れ、誰もが静かに話題を切り替えようとする気配を見せていた。
それは不思議と心地よかった。紅茶の香りが、再び穏やかな空間に広がる。オフィーリアはそっとカップを持ち上げた。口元に運ぶと、ほのかに香る花の余韻が心を穏やかに包む。温かい琥珀色の液体が、体の内側へ静かに染み渡っていく。
どれだけ波紋が広がろうとも、水面の底にあるものは変わらない。試されるほどに、この想いは静かに澄んでいく。指先で指輪を撫でながら、オフィーリアはそっと微笑んだ。




