第六十七話 残る灰、燃え立つ息吹
大広間には優雅な音楽が響き、大理石の床には燭台の柔らかな光が反射し、金糸を織り込んだ重厚なカーテンが揺れる。その中心で貴族たちが舞踏の輪を作っていた。華やかなドレスがゆるやかに翻る中、テオバルトの視線は自然とその中の一組に向かう。
光の加減で黒にも見える茶褐色の髪に、冷静さと洞察力を宿した翡翠の瞳。父と同じ色を継いだ長兄ジークベルトは、貴族社会における理想の当主としての在り方を体現するような男だった。
その腕に添うように踊るのは、婚約者であるローゼマリー・ヴァレンシュタイン伯爵令嬢。濃灰色の髪は高く結い上げられ、銀細工の髪飾りがその色合いを引き立てている。瞳は深緑色——まるで森の奥に潜む静かな湖を思わせる。
テオバルトはグラスを傾けながら、その様子を眺めていた。
二人の姿は申し分なく美しく、見る者すべてに理想の貴族の姿を印象付ける。
見る限り、ローゼマリーはジークベルトに恋愛感情を抱いているわけではない。ジークベルトもまた、彼女に個人的な執着を持っているようには見えない。だが、それは決して悪いことではなかった。むしろ、互いに必要な役割を果たす相手として、これ以上の組み合わせはないのかもしれない。
自身も恋愛結婚だった父は子供達に政略結婚を押し付けることはなかったが、ジークベルトは家のための結婚を選んだ。伯爵家の後継として育てられた兄にはそれが当たり前なのだろう。
むしろ自分が異端なのだと——周囲から向けられる刺すような視線が背に突き刺さる感覚に、テオバルトは苦い笑みを胸の内に閉じ込めた。
グロースベルグ宮内卿の主催する夜会は、この国の社交界において最も格式高い催しの一つだった。六十を超えた公爵の白髪と威厳ある風貌は、数十年に渡って大公国を支えてきた経験を物語っている。だがその実、彼の頑固さと古い考えが、多くの若い貴族の胸中に密かな苛立ちを生み出していた。
視界の端でまさにそのグローズベルグ公が歩み寄ってくる姿を捉えたテオバルトは、自然な動きで姿勢と表情を整えた。貴族としての社交は決して好きではなく、得意でもない。けれども今宵、この機会を避けることはできなかった。
「シュルテンハイム侯、まさかこの場に現れるとはな。今回も来ないものと思っていたが、何か余程の理由があったと見える」
グローズベルグ公の声は低く、広間の騒めきをも凌駕する威厳に満ちていた。その声には、相手を見下す傲慢さが混じっている。
テオバルトは微かに頭を下げる。敬意を示しつつも、その瞳は決して逸らさなかった。
「公務が多く、失礼を重ねております」
わざわざ招待状が送られてきた時点で、何を言われるかは大方察しがついていた。伝統と格式を何より重んじるこの老人が、平民との婚約について黙っているはずがない。
ラウレンティアの貴族は二つの派閥に分かれる。旧派は大公国の建国初期から続く名門貴族で、家紋に月桂樹を抱くことを誇りとする。一方、新派は後の時代に台頭した比較的新しい貴族階級である。
古いものと新しいもの——その確執は、表面上は穏やかでありながら、実際は絶えず貴族社会の底流に渦巻いていた。
彼は旧派の中でも、特に歴史と血統を重んじる存在だ。平民が貴族社会に立ち入ることなど絶対に認められないはずだ。
「それを言い訳にするつもりか」
公爵は言葉を遮り、グラスに注がれたワインをゆっくりと揺らした。血のように赤い液体が、金色の光を反射して淡い光を放つ。
年の割には衰えを見せぬ鋭い眼差しが向けられる。年齢に似合わぬ快活さを装っているが、内にあるのは頑なな保守思想だ。
彼がこれまで貴族社会の価値観を守り続けてきたことは疑いようもないが、同時に時代の変化を快く思わない古い貴族の象徴でもあった。
「この機会に聞いておこう。シュルテンハイム侯、本当にあの平民を妻にするつもりか?」
「はい。公爵閣下がどのようにお考えになろうとも、私の決断が変わることはございません」
静かだが断固とした声に、テオバルト自身、少しだけ驚いた。自分の中にこれほど強い確信があったことを、今まで意識していなかったのかもしれない。
「貴族社会とは血統と格式によって成り立っているものだ。そこに異質な存在を持ち込めば、必ず軋轢を生む」
「貴族社会における伝統の重みを否定するつもりはありません。しかし、変化を受け入れられるか否かは、時代と共に試されるものだとも思っております」
周囲の貴族たちが、それとなくこちらに意識を向けているのが分かる。隠れた視線が背中に集まり、小さな囁き声が耳元で蜂の羽音のように飛び交う。
「あの平民はエストリエの王宮にいたらしいな。間諜ではないと言い切れるのか?」
空気がわずかに変わったのを感じた。グロースベルグ公はただ、猫が鼠を見るように、探るようにテオバルトを見つめる。
「そのような懸念を抱かれるお気持ちは理解いたしますが、私がそれに気づかぬほど愚かだと思われますか? 閣下のご心配には及びません」
「ほう? では、エストリエ王家の動向についてはどうお考えかね。先代はまだしも、今の王は無能だと噂されている。いっそ、まだ弟のほうが王座に相応しかっただろうに」
「ラウレンティアの外務卿として、他国の王位継承に意見する立場にはございません」
その名を口にすることなく語られた言葉に、テオバルトは静かに目を細めた。
(ガレス王の弟……そういえば、その存在を久しく意識していなかった)
ロラン・マルセラ・エステリエ——彼は王宮の中でも影の薄い存在だった。王位継承権を捨てて臣下に下ってからは表立って政治に関与していたわけでもない。エストリエの動向を注意深く探っている今も、特筆すべき動きを見せてはいなかった。
「……つまらん答えだ」
公爵は唇を歪め、グラスを傾ける。そして、ふと表情を変えた。鋭い刃物のような微笑みが、その唇に浮かぶ。
「思えば、お前の父親も変わった男だった」
その一言に、テオバルトの視線が僅かに鋭くなる。頭の中で警鐘が鳴り、全身の筋肉がわずかに緊張した。
「旧派の当主でありながら、新派の令嬢を妻に迎えるなど、誰もが愚かだと笑ったものだ。それも、結果はどうだった?」
公爵はゆっくりとワインを口に含んでから、言葉を継いだ。
「——結局は早死にさせたではないか」
その瞬間、張り詰めていた冷静さが細い亀裂を生む。指先に力がこもる。握りしめたグラスの表面がひやりと冷たかった。しかし今は、その冷たささえも理性を引き戻すには微温い。胸の奥で何かが燃え上がるような感覚に、テオバルトは一瞬、自分が声を上げそうになるのを感じた。
何も知らないくせに。
自分のせいで母が死んだわけじゃない。
お前のような男に、あの人を語る資格はない。
肺の奥に溜まった息を押し殺す。喉元まで込み上げる言葉を抑え込むのは容易ではなかった。オットー・グローズベルグ——この男の言葉はいつもそうだ。ひどく正論に見せかけて、ただ相手を貶めることだけを目的としている。
母が体を壊したのは自分が生まれたせいだと、ずっと心のどこかで燻っていた罪悪感。それを嘲笑うように指摘されることが、これほど苛立たしいとは思わなかった。怒りは視界を僅かに赤く染め、欠陥を脈打つように流れていく。
「公爵閣下」
それでもテオバルトは普段と変わらぬ静かな声を出せた。しかし、その内側には氷のような冷たさがあった。
いつもの穏やかさは消え、代わりに凍りついた冬の川のように、静かで危険な怒りが漂っていた。
「そのような無神経な物言いを、軽々しくなさらないでいただきたい」
低く抑えた声音には、一切の感情が滲まない。だがそれは間違いなく剣のような鋭さを帯びていた。しかしグローズベルグ公はわずかに顎を上げ、唇の端を歪めた。
「ほう、怒るのか? ——事実を口にしただけだがな」
胸の奥を灼くような感覚が広がる。普段ならば何を言われようとも気に留めることはない。けれど、母に関することだけは違った。あの優しい微笑みを、冷たく横たわる姿を、小さな頃の記憶を——全てこの老人に踏み躙られるような気がした。
「テオバルト」
鋭く張り詰めた空気を断ち切るように、ジークベルトの低い声が落とされる。舞踏のための音楽が止んでいることに、そのとき初めて気付いた。兄の傍らにはローゼマリーの姿も見えた。彼女は黙ってこちらを見ていたが、特に表情は崩していない。ただ冷静に状況を見極めているのがわかる。
テオバルトは僅かに瞬きをし、グラスを持ち直す。怒りを飲みこむには、一秒でさえ時間が必要だった。胸の奥に燃えていた炎は、少しずつ静まっていく。いつもの冷静さを取り戻すまでには至らないが、少なくとも言葉を失うほどではなかった。
「……ご忠告、ありがたく受け取っておきます」
感情を押し殺し、淡々とした声音で返す。再び冷静な仮面を被り直したその様子に、公爵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん。まあいい」
言いたいことを言い終えたので、もう興味を失ったと言わんばかりに、グローズベルグ公は視線を流しながらワインを口に含んだ。そして、ふと表情を変える。
「それで、正式な発表はいつだ?」
テオバルトはかすかに目を細めた。この男がオフィーリアの存在を認めるはずもない。それでも、彼女を否定する者たちに対しては、明確なものを突きつける必要がある。避けては通れない試練だ。
「お招きしますよ」
穏やかな声だった。しかし、その言葉には決意の色が滲んでいる。
「どうぞ、直接ご覧ください」
グローズベルグ公は片眉を挙げると、冷笑を浮かべて身を翻した。その背中が人混みに消えていくのを見送りながら、テオバルトは静かに息を吐く。
高い天井から落ちる無数の光が、大理石の床を照らしている。その光の中に立つオフィーリアの姿を想像する。今の彼女が彼のような頑固な旧派の審判に耐えられるかどうかはわからない。しかし、彼女が持つ潜在的な気品と強さを、テオバルトは誰よりも知っている。
必ず彼女はその日までに成長するだろう。そして、そのときが来れば、例え彼であっても、その真価を認めざるを得ないはずだ。
母を貶める言葉を聞いた瞬間、胸の奥に広がった感情は、怒りと呼ぶにはあまりにも冷たいものだった。いつかは消え去るはずの炎の残滓。それでも、そこに残る灰は簡単には拭えない。
静かに燃え尽きるのを待つか、それとも新たな火を灯すか——答えはもう決まっていた。手の中で赤い液体が揺れる。無言のまま、テオバルトはそれを飲み干した。




