第六十六話 揺らぐ花、落ちぬ葉
オフィーリアの生活はまた少しずつ、形を変えていく。エリザベートの屋敷に通いながら貴族らしい立ち振る舞いを学び、時に夫人に連れられて少人数の集まりにも顔を出す。薔薇の香りが漂う庭先での茶会、日差しが柔らかく降り注ぐ園遊会、輝く銀器に彩られた午餐会——
参加者は会によって異なっても、視線の質には変わりがなかった。上品な微笑みの裏には品定めと探りの光が秘められていて、自分の発言や振る舞いが翌日には確かな噂として広まっている。
それでも、軍務卿夫人という盾があるからこそ、この程度で済んでいる。いずれエリザベートの庇護下を離れるとき、それらは真っ直ぐに自分に向けられるのだろう。
◇
この日、オフィーリアは数名の貴婦人と共に街に出ていた。エリザベートの紹介で参加することになったのは、孤児院の慰問。寄附された物資の視察や子供たちとの交流を主だ。これまでの集まりとはまた趣が違うが、それでも社交の一環であることに変わりはない。
訪れたのは比較的整っている孤児院だった。公都の中でも規模が大きく資金的にも恵まれている場所だと聞いていたが、それでも建物の外壁には古さが滲み、室内には長く使い込まれた家具が並んでいる。
質素ながら清潔な服を着た子供たちが狭い部屋で一列に並び、声を揃えて挨拶をする。子供たちは礼儀正しく振る舞っていたが、それでも貴婦人たちの前ではどこかぎこちなさがあった。
声をかけられれば素直に返事をするが、自分から近寄ってくることはない。大人たちが自分たちを眺める目が、興味や関心ではなく、あくまで「視察」のものだと理解しているようにも思えた。
かつて自分もここに並ぶ子供の一人だったのだと——そんな感傷が胸を満たす。王宮に召し上げられる前の幼い日々の記憶には、いつも寒さと空腹が付きまとう。オフィーリアは無意識に、わずかに息を詰めた。
「まあ、可愛らしい子たちですこと」
貴婦人のひとりがそう言いながら、数歩だけ子供たちに近付く。それに釣られるように他の夫人たちも小さく頷くが、誰も積極的に距離を縮めようとはしない。これはあくまで視察であり、子供たちと関わる必要はないという無言の了解が、その場に漂っていた。
そのとき——
「——あっ、だめ、だめよ!」
突然の甲高い悲鳴と、裾に加わった小さな力。視線を落とせば、幼い女の子がぎゅっとオフィーリアのドレスの生地を掴んでいた。少し離れた場所には、もう少し年上の少女が青褪めた顔で立ち尽くしている。
オフィーリアの左右に立っていた貴婦人と令嬢がわずかに眉を顰め、まるで汚れを避けるように数歩ほど距離を取った。ドレスの裾を指先でわずかに持ち上げる仕草には、避けようのない嫌悪感が表れている。
「まあ、いやですわ」と囁かれた声が、どうか子供たちの耳に届いていませんように——そう願いながら、オフィーリアはそっと膝を折った。
「こんにちは。あなたのお名前は?」
無垢な光を秘めた、幼い瞳がじっとオフィーリアを見上げる。年齢は二歳ほどだろうか。もしかしたら、まだうまく話せないのかもしれない。けれど、しばらく躊躇ったあと、小さな声で「リタ」と名乗った。
「そう。リタ、素敵なお名前ね」
オフィーリアが微笑むと、リタは恐る恐る手を差し出した。その小さな手を、オフィーリアは迷わずに取る。柔らかで、温かくて、ほんのり湿った感触が、胸に奥に眠っていた記憶を掘り起こす。
幼い日にどれだけ、こうした温もりを恋しく思ったことだろう。小さな手をそっと握り返したとき、慌てたように駆け寄ってきたのは孤児院の院長だった。
「奥様、大変申し訳ございません!」
引き剥がすようにリタを抱き上げると、院長はオフィーリアに深く頭を下げて謝罪を述べる。
その仕草には、貴族への畏怖と、何か問題が起きることへの恐れが滲んでいた。
「お気になさらないでください」
オフィーリアは静かに微笑んだ。院長の腕の中で、この状況を理解できないリタだけが可愛らしい笑顔を浮かべている。
「リタ、ありがとう。お話ししてくれてとても嬉しかったわ」
幼い少女は何かを言いたげに唇を動かしたものの、院長が申し訳なさそうに彼女を抱え直したことで会話はそこで終わる。
その様子を、貴婦人たちはどこか遠巻きに見守っていた。怪訝な表情は、まるで子供の手が自分のドレスに触れたとでも思っているかのよう。それでも、誰もこの場で何か言葉を発することはなかった。
「突然驚かせてしまったのは私のほうかもしれませんね。ですが、こうして子供たちと直接触れ合えたこと、嬉しく思います」
オフィーリアはそれ以上何も言わずに微笑んだ。
◇
それからしばらく孤児院の中を見て回ることで慰問を終え、それぞれが馬車へと戻っていく。子供たちは礼儀正しく見送ってくれたが、その表情はどこか硬い。きっと彼らにとっては緊張の時間だったことだろう。
「随分と馴染んでいらっしゃったわね」
馬車へ乗り込む直前、不意に隣から小さな笑い声が聞こえた。その声音には蜜のような甘さの中に、かすかな毒が滲んでいる。
オフィーリアは軽く振り返る。先ほどから沈黙を保っていた貴婦人の一人——カミラ・ベルクマン伯爵夫人が、扇をゆるく閉じながら唇の端を持ち上げた。
「あのように無理なく子供たちと接することができるのは、それだけ市井の空気に親しんでいらしたからなのでしょうね。羨ましいような気もいたしますわ」
滑らかな声音の奥に潜む刃が、絹の布にそっと包まれて差し向けられる。その言葉の意味するところは明白だった。
けれど、オフィーリアは慌てない。歌姫として人前に立っていた頃、平民であることを揶揄される場面は何度もあった。かつての王宮で投げられた言葉は、もっと敵意に満ちていた。それに比べれば、この程度の刃は表面を掠めるだけ。
「皆様の振る舞いを見習うよう努めておりますが、もし至らぬ点がございましたら、ぜひ教えてくださいませ」
穏やかに言葉を重ねながら、オフィーリアは相手の表情を観察した。ベルクマン夫人の眼差しにはどこか探るような光が宿っている。おそらく、オフィーリアがこの言葉に動揺し、怒りや恥辱を見せることを期待している。
今日この場にエリザベートはいない。そろそろ一人でお行きなさいと送り出される、初めての社交の場だった。だからこそ、嫌味や悪意の一つ二つは覚悟の上だ。
「まあ、どうかしら。私はただ、あの子たちがさぞ喜んだことでしょうと言いたかっただけよ。同じ境遇の方と触れ合えるのですもの、特別な思い出になることでしょう」
夫人の笑みには明らかな悪意が含まれている。
周囲の貴婦人たちが扇の影からこちらの様子を伺っている気配を感じながら、オフィーリアは静かに息を整えた。
きっと明日にはこのやりとりも、社交界の誰もが知るところになっているはずだ。それでも、オフィーリアは端正な微笑みを崩さなかった。
「それは嬉しいことですね。皆様のような方々が温かい関心を持たれていると知れば、子供たちもきっと安心するでしょう」
「まあ……市井のご出身でいらっしゃるなら、それも当然かもしれませんわね」
オフィーリアの反応が予想と違ったせいか、夫人は目を眇めると、そう言い捨てて自らの馬車へ歩き去ってく。
周囲の貴婦人たちも小声で何かを囁き合いながらそれぞれの馬車へ向かう中で、付き人らしい二人がふと足を止める。
互いを見つめ、やがて声を落として言葉を交わし始めた。それはあくまでお互いに向けられた会話のようでありながら、その声はこちらにも届くように調節されている。
「侯爵様ではなく平民に仕えることになるなんて、ベルナも運の尽きですわね」
「存じておりますわ。かつての婚約者様とは、ご縁がなくなってしまったとか」
その言葉が誰に向けられたものなのか、オフィーリアはすぐに気付いた。けれどオフィーリアが動くよりも早く、傍らに控えていたベルナがいつもの穏やかな表情を保ったまま、そちらに目を向ける。
「人の縁とは、時に思いがない方向へ進むものですわね。良縁とは、後になって気付くこともございます」
ベルナの声は涼やかで、どこまでも上品だった。
「侯爵様にお仕えすることになったときには、まさか貴女がたがこうして私のことを気にかけてくださるとは思いませんでしたわ。ですが、こうしてお優しいお言葉をいただけるなんて、私もまだまだ幸せ者です」
ベルナもまた貴族社会で強かに生き抜いてきた女性なのだ——オフィーリアは静かにそのやりとりを見守りながら、その強さを思わずにいられなかった。変わらぬ落ち着いた表情を保ったままベルナは控えめに一礼する。
「奥様、お戻りのご用意を」
その声は静かでありながら、どこか威厳を帯びている。侍女としての分を弁え、過剰にならないよう慎重に言葉を選びながら、確かにその場を制していた。
馬車の窓の外を、穏やかな陽射しの下で人々が行き交う。けれど、それはほんの一瞬の景色。通り過ぎたものは、もう手を伸ばしても届かない。
いつだって守られるばかりだった。けれど今日は違った。守るべき人がいて、守らなければいけない立場だったのに、何もできなかった。それが堪らなく悔しい。
——次は、もう躊躇わない。自分の立場を活かして、守るべきものを守れる強さを持たなければ。




