第六十五話 溶けゆく朝に
馬車の中は静かだった。
初めての茶会は無事に終わった。思い返せば、探るような視線も慎重な言葉もあったが、それも当然のことだろう。人に見られることには慣れているはずだった。けれど、心の内まで測るような視線に長く晒されるのは思った以上に神経を削るものらしい。
ようやく二人きりになれたことで気が緩んだせいもあったかもしれない。オフィーリアはほんのわずかに、隣に座るテオバルトに身を寄せた。
「……少しだけ、疲れました。でも、悪い印象は残さなかったと思います」
「初めての場でそれができたなら、上出来ですよ」
膝の上に置かれた手にテオバルトの大きな手が重なると、お互いの体温がゆるやかに溶け合う感覚が心地良くて、オフィーリアはゆっくりと息を吐く。
ふと今日の会話を思い返した。茶会で最も関心を向けられたのは、やはり正式なお披露目についてだった。
「……正式なお披露目はいつなのかと、皆さんそれが気になるようでした」
軽く告げると、テオバルトがわずかに目を伏せた。その仕草はどこか言葉を探しているようでもある。
「準備などもありますからね。今、焦って決めることではありません」
それは否定ではない。けれど、はっきりとした答えでもなかった。オフィーリアはそれ以上は何も聞かなかった。確かに今の自分ではお披露目なんてとても考えられないだろう。
馬車がゆるやかに外務省の前で止まる。出迎えの職員たちが整然と並ぶ姿が見えた。扉が開かれる直前、テオバルトはオフィーリアの手を取る。その指先を唇をかすめるように触れる。
「それでは、どうかお気をつけてお帰りください」
その瞬間、彼の目の奥にある何かがふっと遠ざかった気がした。
馬車を降りたテオバルトの横顔は、すでに外務卿としての威厳を纏っている。整然と並ぶ職員たちの間から、一人の青年が歩み出た。薄茶の髪をした細身の男——セシル・カーティス子爵。最近は屋敷にも出入りしている、テオバルトの補佐役だ。
彼がテオバルトに何事かを報告しているのを眺めていたオフィーリアは、ふと職員の列の中に、一人だけ女性がいることに気がついた。頭の後ろできっちりとまとめられた赤褐色の髪、そして新緑のような瞳。男性職員たちの間に立つ彼女の姿は、どこか眩しく映る。
(……女性もいるのね)
それが、少し意外だった。貴族階級の女性が官職に就くことは珍しいはずなのに。少なくともオフィーリアの周囲に、そうして官職に就いている女性はほとんどいない。だが、その佇まいは他の職員と変わらず、自信に満ちているようにも見える。
オフィーリアはそっと息を吐いた。彼の仕事、彼の評価、彼の周囲の人々——どれも知らないことばかりだった。周囲の人々は彼をどう見て、どのような言葉で語るのか。そのすべてを知るには、まだ時間が必要なのかもしれない。
窓の外の景色が流れる。馬車の振動だけが、かすかに響いていた。その景色の中に今の自分はまだ立ていない気がした。
◇
サロンの窓際から差し込む陽光が、オフィーリアの手元の布に柔らかな影を落としていた。テーブルを囲んで座る侍女たちもまた、穏やかな表情で手仕事に集中していた。時折交わされる小さな笑い声と、針が布を貫く微かな音だけが、室内の静寂を優しく満たしている。
新しく屋敷に加わった侍女たちとも、こうして日々を重ねるうちに自然と距離が近付いていた。テオバルトの方針に倣って全員が男爵や子爵といった下級貴族の女性である。
針を持つ手を止め、オフィーリアは小さく息を吐いた。指先にわずかに残る痛みを庇うように手を握る。
「——難しいのね、刺繍って」
目の前には、刺繍枠にかけられたままの布。お手本に倣って花を刺したつもりだが、指先に伝わる感触はまだぎこちなく、糸は思うようには並ばない。それでも、こうして少しずつ形になっていくのが楽しかった。
「慣れれば、もう少し楽になりますわ」
微笑みながらそう声をかけてくれるベルナの刺繍枠には美しい薔薇が咲いている。さりげなくテーブルを見回すと、他の侍女たちも同様だった。刺繍は貴族女性の嗜みのひとつなのだ。
手元の出来栄えを眺めながら、オフィーリアは小さくため息を吐いた。いま着ているドレスに施されている刺繍を見て、その美しさに感心するばかり。
ふいにサロンの扉が静かに開かれた音がして、全員の視線が一斉にそちらへ向く。落ち着いた足取りでテオバルトが入ってくる。出仕前の正装に身を包んだ彼は、いつになく威厳を湛えている。けれどその眼差しには穏やかな光が宿っていた。
テオバルトの姿を認めるなり、侍女たちはさっと立ち上がり、互いに視線を交わしながら部屋を後にしていく。最後にベルナが「奥様、後ほど」と小さく告げると、扉が閉まり、サロンには二人だけが残された。
思いがけない訪問に、オフィーリアは慌てて手元の刺繍を隠そうとしたが、テオバルトの視線はすでにそれを捉えていた。
「何か作られていたのですか?」
すぐそばの椅子に腰掛けながら、彼は興味深そうに尋ねた。隠しようがないと悟り、オフィーリアは恥ずかしそうに刺繍枠を持ち上げる。
「花を刺そうとしたのですが……まだ上手くいきません」
この歪んだ花を見た彼の顔に浮かぶであろう失望を想像し、オフィーリアは思わず目を伏せた。しかし、テオバルトの声は温かかった。
「刺繍ですか。……上達されましたね」
柔らかく告げられた言葉に、オフィーリアは顔を上げる。まだ満足いく出来ではなかったが、侍女たちと共に試行錯誤するうちに、少しずつそれらしい形になってきていた。
「もう少し上達したら……テオバルト様のためにも何か作れるようになりたいです」
ようやくそう打ち明けると、彼の表情が優しく綻んだ。
「あなたの手仕事をいつか身に着けることができるとは、この上なく光栄です」
窓からの陽光に照らされたテオバルトの姿は、まるで絵画の中の人物のように美しく、オフィーリアは思わず見とれてしまう。
「でも、まだまだです。いつかは……侯爵家の紋章も刺せるようにならないといけませんね」
シュルテンハイム侯爵家の紋章には、その爪に金の鍵を掴み、翼を広げた鷹が描かれている。
北方交易路の開拓という功績を象徴するとともに、遠くを見通す慧眼と、新たな扉を開く力を表している——テオバルトからその説明を聞いたとき、思わず感動したものだ。これ以上に、彼に相応しい紋章はない。
それに、夫の持ち物に刺繍を入れるのも妻の役目なのだ。——妻の。
「……あっ」
自分が何を言ったか今更気付き、オフィーリアは軽く息を呑む。思わず顔を上げると、その先でテオバルトは僅かに目を細め、微笑を浮かべた。その表情に、誤魔化すための言葉が見つからなくなる。
「その日を楽しみにしています」
静かな声が耳に届く。けれどそれ以上に、オフィーリアは彼の視線が熱を帯びているような気がして、息を詰めた。
「でも、焦る必要はありませんよ。あなたがその日を迎えたいと思う時が来るまで、私は何も変わらず、ここで待っています」
低く穏やかな声は、どこか優雅な熱を帯びているようにも思えた。オフィーリアの胸が熱くなる。彼はいつだってそうだ。待ってくれる、急かさない。それでも、彼のこの言葉と、重なる手の温もりが、オフィーリアの心を確かに揺さぶっていた。
「……はい」
オフィーリアは、そっと手元の布を握りしめる。自分の手が震えていないか、それを確かめるように。そして、彼の視線がそれをしっかりと捉えていることも、きちんと理解していた。
「……テオバルト様は、お仕事前に、こちらへ?」
話題を変えるように、オフィーリアは静かに尋ねた。
「はい。今日はいくつか予定が詰まっているので、帰りが遅くなりそうです。出かける前に少しだけ、あなたと過ごす時間が欲しくて」
彼の言葉に、思わず視線を伏せた。さりげない一言の中に深い想いを滲ませる彼の仕草に、いつもオフィーリアの心は揺さぶられる。
「今日は髪型が少し違いますね。いつもよりゆるく結われていて……柔らかな印象です」
彼の視線に導かれるまま、オフィーリアは無意識に自分の髪に触れた。淡い白金の髪は緩く編み込まれ、波打つように背中に流れている。朝の光に照らされて、その色は真珠のような柔らかな輝きを放っていた。
言いよどむオフィーリアに、テオバルトの視線が優しく微笑む。ゆっくり伸びてきた指先がオフィーリアの髪の束を掬い上げる。その仕草は、貴重な宝物に触れるような慎重さと、親しい人への愛おしさが混ざったものだった。
「あなたにはどんな装いも似合いますが、今日はよりお綺麗です」
その言葉に、オフィーリアの頬が熱を持つ。テオバルトとの時間は、いつもこうして自分の内側から何かを溶かしていく。




