第六十四話 慎ましき言葉の綾に
「私は、テオバルト様の隣に立ち、共に歩む者でありたいと思っております」
言葉を紡ぐごとに、オフィーリアの心臓が早鐘を打つ。それでも、その視線はまっすぐに定まる。
「外務卿というお立場には、大きな責任が伴うと理解しています。私にはまだ学ぶべきことが多いですが、それでも、テオバルト様が何を選び、どのような未来を描こうとしているのか——その歩みを共にし、支えられる存在になりたいと願っております」
一瞬だけ目を伏せ、息を整える。自分を伴侶に選んでくれたテオバルトの選択は間違いではなかったと証明しなければならない。支えられるだけではなく、共に歩む者として。
「テオバルト様が私を求めてくださったからこそ、この場に立つことができています。お傍に在る者として、相応しい振る舞いができるようこれからも努めてまいります」
テーブルを囲む女性たちの表情が、それぞれに揺れる。レティシアの眼差しには純粋な感動が宿り、別の貴婦人は小さくうなずいている。
そして窓際から差し込む陽光に照らされたクラリスの姿は、まるで肖像画のように凛としていた。彼女の口元がわずかに引き締まる。オフィーリアの姿を見据えながら、慎重に考えを巡らせているようだった。
「理想論ですわね」
控えめな声音が、花の香りに満ちた空間をわずかに冷やす。その言葉には皮肉めいた響きがあったが、同時に何かを認めるような複雑さも含まれていた。
「……侯爵様のお気持ちは、本物なのかもしれませんけれど」
クラリスの視線がオフィーリアの左手をかすめ、そこに光る指輪へとわずかに留まる。
その意図を測りかねながらも、オフィーリアの視線は釣られるように手元へ落ちる。手の甲に陽光が落ち、指輪の石がわずかに輝く——これは、テオバルトが自分に託したもの。その重みを指先に感じながら、胸の奥が微かに熱を帯びる。
まだ何も成していない以上、理想論だと言われても仕方がない。でも、それを現実にするために歩んでいくしかないのだ。今、この場での振る舞いこそが問われている。
オフィーリアは小さく息を吐き、そっと紅茶を含む。芳醇な香りが鼻をくすぐり、ほのかな甘みが舌に広がり、喉を優しく滑り落ちていく。
手元の皿には、まだ手を付けていないケーキが残っている。フォークを取るタイミングを逸してしまったが、今さら口をつけるのも躊躇われた。
静かな緊張が張り詰める中、それを和らげたのはエリザベートだった。夫人は穏やかに微笑んだ。
「けれど、理想を持たない方がよほど寂しいものですわ。そして時には、理想が現実を導くこともあるものです」
ゆるやかな声に、テーブルを囲む空気が微かに息を吹き返す。茶会の場が薔薇の香りとともに、再び優雅な調べを取り戻していく。
やがてレティシアが思いついたように、愛らしく手を叩く。探る様子は微塵もなく、ただ目を輝かせながら身を乗り出した。
「皆さまの中で、オフィーリア様の歌をお聴きになったことのある方はいらっしゃるのかしら?」
やはりこの話題が出る。歌姫としての自分が消え去ったわけではない以上、話題に上るのは避けられない。予想していたことではあっても、どこか胸の奥が痛むような感覚がある。
「噂では、まるで天上の歌声のようだと聞いております!」
弾む声には、どこか好奇心と憧れが滲んでいる。ただ心から興味を持ち、称賛したいだけなのかもしれない。
それが厄介な場合もあると理解しながらも、オフィーリアは静かに微笑んだ。
「一度だけ拝聴したことがありますわ」
クラリスが穏やかに頷いた。その表情にはこれまでとは違う色合いが宿っていた。オフィーリアの心臓が一拍分、早くなる。
「以前、音楽祭に招かれていらっしゃいましたよね。私はどちらかというと舞踏会のほうが好きでしたけれど」
オフィーリアはさりげなく他の参加者の反応も伺ったが、明確に聞いたことがあると示したのはクラリスだけだった。
「でも、音楽的な才能と社交界での立ち居振る舞いは、また別のものですわよね」
オフィーリアは揺れる感情を悟られぬよう微笑を保った。音楽祭に招かれたのは四年前のこと。基本的に王宮の中で歌うことが多かったオフィーリアにとって、音楽祭や劇場での公演は、王宮に出入りすることのない人々に歌を披露する数少ない機会だった。
王宮の晩餐会とは異なり大勢の観客を前にした公演だったが、あくまで演目のひとつに過ぎなかった。主催者側の貴族とは挨拶を交わしたものの、観客側の顔までは流石に覚えていない。それに貴族たちの関心は必ずしも音楽だけに向けられていたわけではなく、その場の華やかさを楽しむ者も多かったはずだ。
懐かしさと、言葉にならない感覚を押し隠し、オフィーリアは落ち着いた声で応じる。
「音楽祭は華やかですが、やはり舞踏会のような社交の場とは趣が異なりますものね」
そうさらりと流して話は終わるはずだったが、横から声を上げたのはレティシアだった。
「まぁ、やっぱり素敵な歌声だったのでしょう? 私も聞いてみたかったのに、お父様が音楽祭はまだ早いと許してくださらなくて……オフィーリア様、今後はもう歌われないのですか?」
レティシアがそう言いながら、皿の端に残ったタルトの断片を小さく切る。赤い果実のソースが皿の縁に広がり、光を受けて艶めいていた。
やはり彼女の言葉は純粋な好奇心からくるもののようで、余計に反応が難しかった。もう歌姫ではないのに、その称号はこれからもずっと付きまとう。
過去の栄光と喪失の痛みが、オフィーリアの心に小さな波紋を広げる。
「そう仰っていただけて嬉しいです。ですが、今は歌よりも大切にするべきことがございますので」
オフィーリアは微笑みながらも、その視線は柔らかな陰影を帯びていた。
これがシュルテンハイム侯爵の婚約者として初めての社交の場であるせいか、それからも話題の中心はオフィーリアに関することばかり。最も関心を持たれたのは、正式な発表がいつになるのかということ。
いずれテオバルトから発表されるのだろうが、今のところ決まった予定はない。けれど、まだ決まっていないと言うわけにもいかない。曖昧に言葉をぼかしながら「また皆様にお会いすることもあるかもしれません」と、オフィーリアは穏やかに微笑む。
やがてひとしきり聞き出して満足したのか、ようやく別の話へ移っていった。貴婦人たちの間で交わされる会話は、まるで心地よい波の音のようにオフィーリアの耳に届く。その洗練された抑揚には生まれた時から培われてきた教養と自信が滲んでいる。
軽妙に言葉を交わしながらも、どこに誰が関わっているのか、どの情報が有益なのかを瞬時に判断し、自然に会話の流れを作り出していく。その流れに乗り切れない自分を意識しながらも、オフィーリアは黙ってその応酬に耳を傾けた。
貴族社会の最近の動き、各家の婚約や縁談にまつわる話、王宮での舞踏会の予定。何気ない噂話の中にも、貴族社会の力関係や情勢を読み解くための要素が含まれているのだと気付く。蒼玉の指輪に宿る重みを感じながら、オフィーリアは静かに学ぶ姿勢を崩さなかった。
とはいえそのすべてについていけたわけではなく、聞き役に徹していることが多かった。けれど、こうした場で交わされる情報の中に、今後必要となる知識があるのだろう。言葉の端々に潜む意図を汲み取れるようにならなければならないと、ひとつひとつに注意を払った。
話題がひと段落し、カップが静かに置かれる音が響いた頃、エリザベートが控えめに微笑みながら席を立った。「そろそろお時間ですわね」と、自然な流れで茶会の終わりを告げると、集まった女性たちもそれに倣い、席を立っていく。
オフィーリアも静かに立ち上がり、ベルナの姿を探した。庭の一角で控えていたベルナが歩み寄ってくるのを確認すると、長い間緊張していた肩から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。そのまま屋敷を後にするつもりでいたオフィーリアは、エリザベートの言葉に再び足を止めることになった。
「あなた、よっぽど大切にされているのね」
夫人が意味ありげに微笑む。その言葉の意味をすぐには理解できないまま、使用人に案内されるまま進むと、再び応接室へと通された。
扉が開かれると、そこには先ほどと同じ光景が広がっていた。マクミシリアンとテオバルトが向かい合い、変わらぬ姿勢で腰掛けている。
彼らが自分たちのように社交界の噂話に興じていたとは思えない。テーブルには書類が広げられているものの、迂闊に眺めてはいけないと、オフィーリアはそっと視線をそらした。
こちらに気付いたテオバルトがゆっくりと振り返る。真剣みを帯びていた表情が、オフィーリアの姿を認めた途端、わずかに緩む。その琥珀色の瞳には、どこか安堵の色が滲んでいた。
「お疲れさまでした、オフィーリア。初めての場でしたね。どうでしたか?」
その声音は、オフィーリアが知るいつものテオバルトのものだった。張り詰めていた空気がふっと和らぐ。
「まだ慣れないことばかりですが、少しずつ学んでいければと思います」
そう答えながら、そっと息を吐く。こうして迎え入れてもらえることが、思いのほか心に沁みた。
「テオバルト様……もうお帰りかと思っていました。お二人で何かご相談でも?」
「はい。今ちょうど、区切りがついたところです」
そのやりとりを聞いていたマクミシリアンが、押し殺したように低い笑い声をこぼす。漆黒の瞳には、からかいの光が宿っていた。
「公務の話もあっただろうが、結局は待っていたかっただけじゃないのか」
低く抑えた声が応接室の静けさに溶け込む。その言葉には軽い冗談めいた響きがあったが、どこか真実を射抜くような鋭さも感じられた。
だがテオバルトは特に動じることなく、淡々と書類を片付けながら口を開く。
「待っていただけと言われましても、卿との会談も必要なものでしたので」
ごく自然な声音だった。マクミシリアンは半ば呆れたように肩をすくめる。その表情には長年の知己ならではの理解が宿っていた。
「まあ、どちらにせよ、私を巻き込んだのは確かだな」




