第六十三話 麗しき舞台の裏で
「ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりましたわ」
藍白の瞳に見つめられた瞬間、オフィーリアの背筋がそっと伸びる。エリザベート夫人の微笑みには温かな歓迎の色と共に、知的な観察の色が潜んでいた。年齢は四十を少し過ぎた頃だろうか。上品にまとめられた灰茶の髪は艶やかで、その立ち居振る舞いには年齢を超えた優美さが漂う。
テオバルトが改めてオフィーリアを紹介する。その穏やかな声に背中を押され、オフィーリアは軽くスカートを摘んで礼を取った。
「お招きいただき、ありがとうございます」
できるだけ落ち着いた声音を心がけたが、指先にはかすかに力がこもる。茶会の前にこうして挨拶の時間を作っていただけたことは、事前にテオバルト加良聞いていた。けれど、夫人の隣に座る男性の存在が、オフィーリアにどこか痺れるような緊張をもたらす。
マクミシリアン・オルデンベルグ侯爵。夫人の柔らかな色合いとは対照的に、その姿には漆黒の鋭さが宿る。黒い髪と瞳は夜の闇を切り取ったかのよう。眼差しに敵意はないものの、その鋭い観察力は隠しようがない。
軍務卿という重責を担う者の、揺るぎない威厳だろうか。彼は最初に簡素に名乗っただけで、それ以降は沈黙を守っている。くつろいだ姿勢でありながら、その身のうちには刃のような緊張が潜んでいるようだった。
侯爵邸の応接室に、テオバルトとエリザベートの穏やかな会話が流れる。形式的な挨拶を終えて、話題は自然とオフィーリアへ向けられた。
「あなたの立場を考えれば、社交界の関心が集まるのは避けられませんわ。些細な言動にまで詮索の目が向けられることでしょう」
エリザベートは緩やかに微笑みながらティーカップを手に取った。その仕草には長年の経験が磨き上げた余裕が滲んでいるようで、オフィーリアは思わず息を呑む。
「大切なのは、慌てずに落ち着いていること。あなたが堂々としていれば、周囲はおのずとそれを受け入れるものですわ」
柔らかくも芯の通った言葉に、オフィーリアは静かにうなずく。それは単なる社交辞令ではなく、重みのある助言として響いた。
「……心得ております」
もう前回のような失態は犯さない——その決意を胸に秘めながら返事をした時、扉が控えめに叩かれる。準備が整ったことを告げる使用人の声に、オフィーリアは思わずテオバルトを見上げた。
「これからのひとときが、あなたにとって大切な一歩になるはずです」
差し出される手を取って立ち上がる。琥珀色の瞳が穏やかに細められ、繋げられた手にそっと優しく力が込められる。その仕草には、言葉にできない想いが宿っているようだった。
「——誇りを持って進んでください」
静かな声音が、部屋に満ちた朝の静けさに溶け込む。ここから先へテオバルトはついてこられない。けれど、ドレスに秘められた銀の懐中時計が彼の温もりをそっと伝えてくれるようだった。新しい世界の風が、窓の向こうで庭の木々を揺らしている。
◇
庭園に出た瞬間、温かな陽光が頬を撫でた。手入れの行き届いた草花の間に、白いクロスがかけられたティーテーブルが並ぶ。そこにはすでに数名の女性が着席し、穏やかな談笑が交わされていた。しかしこちらに気付いた瞬間、会話が静かに止み、興味深そうな視線が集まる。最後の招待客の存在に、誰かが静かに言った。
「あら、いよいよ主役のご登場ね」
エリザベートに促され、オフィーリアが席につくと、夫人は穏やかに微笑みながら周囲を見渡し、静かに口を開いた。
「皆さま、改めてご紹介いたします。こちらがシュルテンハイム侯爵のご婚約者、オフィーリアさんです」
エリザベートの言葉に、場の空気がわずかに動く。探るような視線、慎重に距離を測る視線、単純な興味を含む視線——それぞれの反応が読み取れるが、露骨な敵意を示す者はいない。
エリザベートが順に参加者を紹介していく。格式を重んじるルーヴェル侯爵夫人のクラリス、華やかで好奇心旺盛なベルモント子爵令嬢のレティシア、夫が軍務に就く伯爵夫人——それぞれが品のある微笑みを浮かべながら、控えめな挨拶を交わす。
社交界に不慣れなオフィーリアにもわかりやすいよう、必要以上に堅苦しい言葉は使われていないが、それでも、この場に漂う緊張感は拭えなかった。
「では、皆さま。どうぞお召し上がりになって」
エリザベートの言葉を合図に、使用人が静かにティーセットを運びはじめる。
繊細なカップに紅茶が注がれ、仄かに甘い香りが広がる。三段のティースタンドには焼きたてのスコーンにクロテッドクリームと苺のコンフィチュール、しっとりとしたスポンジケーキ、口の中でほどけるような食感のメレンゲ菓子。目にも美しい菓子が並ぶと、女性たちはそれぞれ小さな銀のフォークを手に取り、上品に口へと運んでいった。
オフィーリアも手元の小皿に置かれたケーキに目を向ける。瑞々しいベリーが飾られたタルトは、ひとくち食べるごとにほのかな酸味と甘みが口の中に広がる。紅茶を一口含むと、華やかな香りがより際立つようだった。
「それにしても、オフィーリア様がこんなにお若い方だったなんて意外でしたわ」
はじめに口を開いたのはクラリスだった。確かにオフィーリアとテオバルトは十歳の差がある。けれど、ただその事実だけを指摘しているようではないような気がした。
「皆様の前ではまだまだ未熟者ですが、少しずつ学んでまいりたいと思っております」
謙虚な言葉で返しながらも、オフィーリアは相手の真意を探っていた。茶会の参加者はエリザベートとオフィーリアを含めて六人。この中でオフィーリアは最年少だが、既に正式な婚約者である以上は既婚者として扱われる。
「お二人はどのようにしてお知り合いになったのです? 是非お聞きしたいです」
レティシアが無邪気な好奇心を滲ませながら尋ねる。その瞳には純粋な興味が宿っているように見えた。
「初めてお会いしたのはエストリエです。詳細をお話しするほどのことではございませんが、お目にかかる機会がございました」
事前に用意した言葉が、思いのほか自然と口をついて出た。
「まぁ、エストリエで? 公務の一環だったのかしら?」
「テオバルト様のお立場を考えれば、公務の延長であったとも言えるかもしれません」
個人的な関わりではなかったのだと、曖昧に誤魔化す。実際のところ彼は外務省に転属してからずっと北方交易路構想に関わっていたので、南方にあるエストリエを公務で訪れたことはないらしい。
いくら記憶を辿ってもテオバルトとの出会いは見つからない。それも当然のことだった。けれど、そうした事情を明らかにする必要はない——今の自分にできることは、この場を穏やかに保つことだけ。
「でもご婚約なさったのは、つい最近のことだと伺いましたわ」
別の貴婦人からの質問に、オフィーリアは微笑みながら応じた。
「私自身も思いがけない巡り合わせでしたが、今となってはありがたく思っております」
淡々とした答えのつもりだったが、「巡り合わせ」という言葉に、対面のクラリスがわずかに眉を上げたのを見逃さなかった。カップを持つ指がかすかに止まり、すぐにまた優雅に動く。唇に添えられた茶器の向こうから、探るような視線が注がれる。
「巡り合わせ、ですか……。それは随分と運の良いことでしたのね」
静かな声音には、微かに棘がある。その言葉は明確な敵意というよりは、何かを確かめるような含みのある響きだった。
「ご縁というのは、不思議なものですわね。相応しい条件が整っているはずでも、叶わないこともありますし」
さらりとした言葉に聞こえたが、その眼差しには一瞬、微細な影がよぎった気がした。オフィーリアは視線を逸らさずにクラリスを見返す。格式を重んじるこの女性が、場の空気を損ねるような無作法をするとは思えない。それでも、その言葉にはどこか意図があるようだった。
場の空気は穏やかに保たれているものの、その場にいる貴婦人たちは各々、視線の奥に異なる感情を宿している。興味、探り、あるいは純粋な好奇心。オフィーリアは意識して表情を整えながら、クラリスの言葉を待った。
「市井のご出身でいらっしゃるのに、侯爵様があなたをお選びになった理由はなんだったのでしょう? やはり、歌姫というご経歴が関係しているのかしら?」
「それはテオバルト様ご自身にお伺いするのがよろしいかと存じます」
穏やかに微笑みながら、オフィーリアは静かに答える。答えは簡潔でありながら、婚約者への信頼と敬意を示す言葉。それに対して、誰も異を唱えることはできない。
一瞬の静寂が流れる。再びその沈黙を破ったのは、クラリスの落ち着いた声だった。その口調には、これまでとは違う響きがあった。
「ではあなたご自身は、シュルテンハイム侯爵様の婚約者としてどのような在り方を望んでいらっしゃるのかしら」
その問いに、場の空気が一段と引き締まる。視線の奥に潜んでいた探りや興味が、一斉に表面化したかのよう。エリザベートでさえ、わずかに身を乗り出すように見えた。
それはオフィーリアの覚悟や志を問うもの。曖昧に誤魔化すことも、受け流すことも許されない。ここでの答えが、この場の人々の目にどう映るか。これからの社交界での立ち位置を決める最初の一歩になるのかもしれない。ドレスに忍ばせた懐中時計の存在を感じながら、オフィーリアは静かに口を開いた。




