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第六十二話 導かれる手の先に

 改装を終えたばかりの執務室には、しんとした静けさが広がっていた。壁に灯されたランプの明かりがゆるやかに揺れ、室内に柔らかな陰影を落としている。

 革張りの椅子はまだ硬く、オフィーリアが身動ぎするたびにぎこちなく小さく軋む。真新しい壁紙は月明かりに煌めき、暑い絨毯は足音を優しく包み込む。壁際の本棚には、まだ多くの余白が口を開けている。いつかその棚が埋まる頃には、きっと自分も貴族の妻としての歩みを確かなものにできているだろう。


 書類を広げるには十分な広さのある樫の木の机には、今は一通の封筒が慎ましく置かれている。考えるべきは他にある。けれどオフィーリアの心は、指の間で転がす一本のペンに惹きつけられていた。

 滑らかな象牙の軸が優しく指先に馴染む。婚約の記念にと、テオバルトから贈られたもの。それはただそこにあるだけで彼の温もりを感じさせた。白金のペン先に刻まれた繊細な模様すら、まるで彼の気遣いそのものを形にしたかのよう。ただそこにあるだけで、不思議な安らぎが宿る。

 

 静寂を破るように、扉が控えめに叩かれた。ベルナだと思って「どうぞ」と声をかけた瞬間、扉の向こうから現れたのは思いがけない人影だった。オフィーリアの心臓が小さく跳ねる。

「まだ起きていらしたのですね」

 テオバルトの声は夜の静けさに溶け込むように柔らかい。テオバルトは静かに扉を閉め、部屋の中へと数歩進んだ。

 既に湯浴みを済ませているはずなのに、いつもと変わらない端正な装いだった。シャツの襟はきっりち留められ、袖口も乱れひとつない。

 ただ、ほんの少しだけ普段と違うのは、髪がまだ乾き切っていないこと。淡い灯火の下で、その色合いがわずかに深く見える。湿り気を帯びた髪が額にかかる姿は、日中の凛々しさとはまた違った魅力があった。

(相変わらず、完璧な人)

 そしてその完璧な人が今はもう自分の婚約者なのだと——そう考えると、胸の奥がどこかくすぐったい。彼の整った横顔を見ているだけで、心がざわめく。


「テオバルト様、何か……ご用でしたか?」

 こんな時間にわざわざ尋ねてくるのだから、きっと何か重要な話があるに違いない——そう考えて、オフィーリアは背筋を伸ばす。

「あなたに渡したいものがありまして」

 テオバルトはそう言いながらも、すぐには本題に入らず、机の前まで来ると足を止めた。

「それに、今日はゆっくり話す時間がありませんでしたからね」

 その声は穏やかで、瞳には温かな光が宿っている。

「ご迷惑でしたか?」

 まったくそうは思っていないような口振りでテオバルトが言い、オフィーリアは思わず微笑んだ。


 彼はいつも物腰穏やかで静かな人だが、決して感情を隠しているわけではない。むしろオフィーリアと過ごす時は表情も言葉も豊かになる。——もしかしたら、彼のそうした姿を知る人間は少ないのかもしれない。

「迷惑だなんて、そんなことありません。私もテオバルト様にお会いできるのは嬉しいです。……でも、こんな時間にいらっしゃるのは珍しいですね」

 そこまで言ったところで、オフィーリアは「あ、」と気付いた。夜遅い時間に部屋を訪ねること、部屋で二人きりになること。これまでは控えるべきで、これからはある程度なら許されること——彼との関係にはもう、確かな名前がついている。


「何を書いていたのですか?」

 テオバルトは少し不思議そうにオフィーリアを見た。オフィーリアの手にはペンが握られているものの、そこには何かを記すための書類も便箋も、インクさえも無いのだから当然だ。

 ただ贈り物のペンを取り出して眺めていただけとは流石に恥ずかしくて言い出せず、適当な言い訳を探すけれどすぐには見つからない。そんな様子に、テオバルトは何かを察したようだった。

「気に入っていただけたようで、嬉しいです」

 琥珀色の瞳が柔らかに細められ、口元が優しい弧を描く。その表情には、純粋な喜びが宿っているように見えた。

「——しかし、夜更かしはいけませんね」

 優しい口調。決して咎めるような響きはなかったが、オフィーリアは言葉に詰まって目を伏せる。確かに時計はいつもより遅い時刻を示していた。

 テオバルトの長い指が机の上に置かれた封筒を手に取る。箔押しされたオルデンベルグ侯爵家の紋章が、その威厳を称えるようにきらりと輝く。


「ついに明日ですからね。落ち着きませんか?」

 気遣いを含んだ声に、オフィーリアは静かに頷いた。人前に立つことも批評されることも初めてではないが、今後は自分の評価がテオバルトにも影響を及ぼすのだと思うと、その重圧の重さを感じずにはいられなかった。無意識に、ペンを握る手に力がこもる。

「主催のエリザベート夫人は公正で善い方です。初めての参加にしては理想的な席だと思いますよ」

 理想的な席——夫であるオルデンベルグ侯爵はテオバルトとも親しい人物だとクラウスに聞いた。その席も、きっとテオバルトが用意してくれたものなのだろう。自分の知らないところで舞台が整えられていく。それは安心と共に、その舞台に相応しい働きをしなければいけないという気負いになって肩を重くする。


「実は、これを私に来たのです」

 テオバルトは軽く咳払いをし、胸元から何かを取り出した。その仕草には珍しく些細な緊張が滲んでいる。濃紺の天鵞絨に包まれたそれを、静かに机の上に置く。

 長い指がそっと箱をなぞる様子に思わず見惚れてしまう。彼の手は常に優雅で、どんな動きも無駄がない。

「開けてみてください」

 オフィーリアはそっと箱を手に取り、蓋を開けた。その瞬間、思わず息を呑む。

「これは、懐中時計……ですね。とても綺麗……」

 灯りに照らされた銀の輝きは、まるで月光の煌めきを思わせた。上蓋には星と月が織りなす精巧な模様が描かれ、まるで夜空を閉じ込めたかのよう。素手で触れることさえ憚られるほどの美しさだった。

「これからの時間を共にする証として」

 テオバルトの静かな声が、どこか厳かに響く。

「どんな道を歩むとしても、あなたが自分の時間を大切にできるように」

 灯火がテオバルトの横顔を優しく照らし、オフィーリアは思わず息を呑んだ。昼間の凛々しさとは違う、夜の静寂に包まれたその姿に、胸の奥が切なくなるほど熱くなる。


「ありがとうございます。でも、いただいてばかりで……。私、何もお返しできるものがありません」

 指先でそっと懐中時計を撫でながら、オフィーリアは言葉に詰まる。

「あなたから何かをいただくのであれば、手紙がいいです。そのペンで、あなたの言葉を私にください」

「そんなものでよろしいのですか?」

「そんなもの、ではありません。あなたが綴る言葉が、私にとってどれほど価値のあるものか」

 穏やかな声が夜の静寂に溶ける。言葉の意味を噛み締めながら、オフィーリアはそっと視線を落とした。

「……でしたら、必ずお届けします」


 顔を上げた瞬間、そっと頬に触れる指の温もりを感じる。驚きに息を止める間もなく、ゆるやかに距離が縮まる。琥珀色の瞳が静かに揺れ、まぶたを伏せた途端、唇がそっと重なった。触れるだけの、けれど確かに想いを伝える口付け。短く、穏やかで、余韻を残すそれが静かに離れると、テオバルトは低く囁いた。

「もう遅い時間です。お休みになられたほうが」

 オフィーリアは頬を染めながら軽く頷いた。その仕草に、テオバルトの瞳が柔らかく細められる。

「お部屋までお送りします」


 差し出された手を見つめ、そっと指を重ねる。しっかりと支えられる感触が伝わると、静かな安堵が胸に広がった。この温もりは、これからも変わらないのだと——そう思える確かな重みがそこにはあった。

 この手に導かれるまま、オフィーリアは新しい一歩を踏み出そうとしていた。明日という日を前に、不安は消えないけれど、この人となら歩いていける。そう信じられる夜だった。


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