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第六十一話 風は静かに巡る

 この日、テオバルトが訪ねていたのは軍務卿マクミシリアン・オルデンベルグの屋敷だった。華美な装飾は控えめで、実用性を重視した重厚な造りが、いかにも軍人の邸宅らしい気骨を湛えている。


 応接室で、テオバルトはマクミシリアンとその夫人エリザベートと対面していた。

 今のマクミシリアンは軍服ではなく、くつろいだ装いをしているというのに、その佇まいからは鋼のような鋭さが滲み出ている。むしろ飾り気のない姿だからこそ、その本質が露わになるようだった。

 テオバルトは背筋を伸ばし、まっすぐにその黒い瞳を見据えた。


「君が女性のことで頭を下げに来るとは、人生何があるかわからないものだ」

 マクミシリアンの低く落ち着いた声には、どこか興味と親しみが混ざっている。肩まで伸びた黒髪は丁寧に束ねられ、漆黒の瞳はどこか楽しげにこちらを見ている。軍人としての気迫は抑えられているが、その眼差しの奥には鋭さが潜んでいた。

 その隣で、エリザベートが穏やかに微笑む。


「ご婚約の噂はすでに耳にしておりますのよ。名の知られた方なのですって?」

 エリザベートの声は絹を撫でるように柔らかく、それでいて水面のような静けさを湛えていた。上品な青緑のドレスに身を包んだその姿は、四十代半ばを過ぎてもなお優雅さを失わず、むしろ若い頃の華やかさが落ち着いた風格へと昇華していた。

 灰茶の髪を上品に結い上げ、藍白の瞳には知性の光が宿る。長年の社交界での経験が磨き上げた鋭い観察眼は、テオバルトの内心を読み解こうとするかのようだった。

 

 テオバルトは一瞬、言葉を選びながら夫人を見つめ返した。

 オフィーリアが社交界に踏み出すにあたり、まずは安全な場所と温かな指南役が欲しい。丁度良い緊張感の中で、少しずつ貴族社会のルールを学び、自信をつけていくことが必要だった。エリザベート夫人ほどその役割に相応しい人物はいない。

 夫人の交友関係は過度に格式張った保守派偏重でもなく、かといって評判を損なうような軽率な人物もいない。軍務卿の妻という後ろ盾があれば、表立ってオフィーリアを無闇に見下すような者もそうは現れないだろう。

 相応の地位と影響力を持ち、それでいてテオバルト自身が信頼を置ける人物——その条件を満たす相手として、エリザベート夫人は完璧な存在だった。


 軍にいた頃、上官であったマクミシリアンを通じて夫人とも交流があった。何百と舞い込む縁談に辟易としていた日々。そこに軽率な振る舞いを加えれば、無数の憶測や誤解を生むのは明らか。その危うさを肌で感じていたからこそ、避けられない舞踏会で敢えてダンスの相手を夫人に頼んだこともある。夫妻はそうした自分の価値観にも昔から深く理解を示してくれていた。

 社交界への橋渡しはエリザベート夫人に、そして北方への懸念に対する備えはマクミシリアンに——どちらも欠かせない協力者だ。特に後者については、この場で切り出すべきか迷うところだが、いずれ機会を見て相談せねばならない。

 そんな複雑な思いを胸に秘めながらも、テオバルトは落ち着いた声で答えた。


「オフィーリアと申します。数年前までエストリエで銀月の歌姫と称えられていた方です」

 テオバルトの言葉に、エリザベートの藍白の瞳が興味を含んで細められる。

「まあ、あの方が? それは驚いたわ」

 歌姫が平民であることはその名声とともに広く知られていることだ。そして目の前のオルデンベルグ夫妻は、それを理由にオフィーリアを退けるような人物ではないことをテオバルトは知っていた。それが二人に協力を求めた理由の一つでもある。


「しばらく大公閣下の庇護下におりましたが、正式に婚約を結びました」

 テオバルトが静かに告げると、エリザベートは面白そうに唇に指を添える。彼女の表情には非難の色は微塵もなく、むしろ興味深そうな光が宿っていた。

「……あなたが選んだ方というだけで興味深いのに、そんな過去をお持ちだなんて。それは確かに、注目されるでしょうね」

  

 二人のやりとりに耳を傾けながら、マクミシリアンは軽く顎に手をやる。長い黒髪の下で、同じ色をした瞳が狐のように光った。

「なるほどな。大公閣下の承認を得た次は、我々に話を持ってきたか」

「是非とも、お力添えをいただきたく」

 テオバルトの言葉に、マクミシリアンはゆるりと椅子の背にもたれた。その仕草にはかつての上官としての厳格さはなく、長い付き合いだからこその親しみと探りが混ざっていた。


「当然、伯爵家からの理解も得られているのだろうな?」

「はい」

 一言で答えたものの、テオバルトの胸の内はやや複雑だった。二人の兄はどちらもオフィーリアが貴族社会で生きていけるのか、その真価を見極めようとしている。

 婚約そのものへの異論は父も兄たちも口にしなかったが、結局のところ、すべては今後オフィーリアが貴族社会にいかに溶け込めるかにかかっている。

 夜会ならまだしも、女性だけの茶会のような場所に自分が付き添うことは慣習上許されない。不安要素を少しでも取り除き、離れていても彼女を守れる環境を用意する——それが今の自分にできることだ。

 

「しかし、これから彼女は貴族社会の厳しい目にさらされることになります。だからこそ、エリザベート夫人のご加護をいただきたいのです」

 そう言いながら、テオバルトは視線をエリザベートへと向けた。夫人は優雅にティーカップを持ち上げ、その香りを楽しむように目を細め、静かに一口。

「まあ、あなたがそう言うのなら、お力添えしないわけには参りませんわね」

 微笑みを湛えながらそう答える夫人の表情には、すでにこの申し出を受け入れる意思が感じられた。 

 

「夫人が主催なさる次の茶会に、彼女をお招き願えますか」

 エリザベートはテオバルトの言葉に、わずかに考えるように睫毛を伏せる。しばしの沈黙の後、静かに頷いた。

「ええ、喜んで。ちょうど近々、親しい方々をお招きする会がございますの。ご案内を差し上げますわ」

 その穏やかな声に、テオバルトはほんのわずかに肩の力を抜く。オフィーリアのことになると、どうしても心の内が仕草に現れてしまう。夫人がそれに気付いたかは定かでないが、その微笑みにはわずかな温もりが加わったように思えた。

 夫人の協力が得られたなら、オフィーリアの社交界への参加はより円滑に進められる。それはこの先の彼女の立場を守り、地位を盤石にすることにもつながるはずだ。


「どうせ君のことだ。すでに他にも話をつけているのだろう?」

 マクミシリアンの言葉には呆れと共に、どこか彼らしい皮肉めいた親しみが滲んでいた。

 その直感は鋭い。テオバルトはわずかに目を細めたが、表情には出さないよう努めた。

「いずれ、オルデンベルク卿にもご相談したいことがございます。また改めて」

 社交界だけではない。北方からの動きが気になっている今、軍務卿としての彼の力も必要になるかもしれない。しかし、その話は今ここで——夫人の前ですべきではないと判断した。

 マクミシリアンは言葉の奥にある意味を察したのか、わずかに目を細める。

 最後にテオバルトは、隣に座るエリザベートへと改めて視線を向けた。

「どうか、オフィーリアをよろしくお願いいたします」


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