第六十話 はじまりの境界で
謁見室に足を踏み入れた瞬間、オフィーリアは思わず息を呑んだ。
天井まで届きそうな大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、白大理石の床に淡い光の帯を描いている。深い緑の壁紙に施された金糸の装飾が、その光を優雅に反射していた。
部屋の空気は静謐でありながらも、どこか厳かな雰囲気を帯びている。豪華すぎず、かといって質素すぎることもない。まさに大公の謁見室に相応しい、格式ある空間だった。
部屋の中心には署名のための長机が据えられ、その周りに重厚な木彫りの椅子が配されている。背もたれに刻まれた繊細な模様はまるで古くからの歴史を物語るようだった。
壁際には燭台が並び、その間を縫うように飾られた肖像画の視線が、この場の重みを一層際立たせていた。
その主席に座っていた青年が口を開く。
「よく来た」
ラウレンティア大公ハインリヒ・ランベルト・ヴェルトリックの声は穏やかでありながら、静かな威厳に満ちている。
テオバルトの口から聞いた「誠実で公正な人物」という評価は、目の前の若き君主の佇まいに確かに表れているように思えた。
色の濃い金髪は陽光を受けてより色濃く輝き、深い蒼の瞳がまっすぐこちらを見据えている。その眼差しは鋭くも穏やかで、まるで全てを見透かすかのよう。黒を基調とした装いは過度な装飾を省きながらも、その存在感だけで、彼の立場と権威を際立たせていた。
「では、始めようか」
オフィーリア達がそれぞれ席に着いたのを確認し、ハインリヒが口を開く。その言葉を合図に近くで控えていた文官らしい男性が前に歩み出て、手にした証書をテオバルトに渡す。
内容の確認を促され、オフィーリアも証書に目を落とす。羊皮紙で作られたそれは革の装丁がされており、正式な文書としての重みを感じさせる。
そこには整然とした文字で、今回の婚約に関する条文が記されていた。
この婚約がテオバルトとオフィーリア、両者の間で正式に交わされること。オフィーリアは大公の庇護の下にあり、その名を以て特例としてこの婚姻が認められること。婚約を解消する場合には大公の承認を要すること——穏やかに綴られた条項の中で、その一文だけが冷たい影を落としているように感じた。
けれど、それすらも彼らしい慎重さなのだと、オフィーリアには分かる。大切なものだからこそ、守るための決まりが必要なのだ。
オフィーリアの視線が、次の一文に触れたところで止まる。
——婚姻は、適切な時期に両者の合意の上で行うこと。
それが婚約証書に記される当たり前のものなのかはわからない。けれど〝適切な時期〟〝両者の合意の上〟の言葉に、心が優しく包まれるような感覚があった。自分に自信が持てるようになるまで時間が欲しい——その想いを、きっと彼は汲み取ってくれたのだ。
証書に記された条文を改めて目で追い、静かに息を整える。オフィーリアが顔を上げると、テオバルトが隣で小さく頷いた。それだけで、迷いを払うようにオフィーリアもまた微かに頷き返す。
「問題はないようだな」
ハインリヒの言葉を合図に、文官が証書を持ち、それぞれの前へ差し出していく。最初に大公のもとへ。彼が羽ペンを手に取ると、静謐な空間にわずかな筆音が響いた。流れるような筆跡が羊皮紙の上を滑り、迷いのない一筆が署名を形作る。
続いて、証書はジークベルトの前へ。彼は無言でペンを取り、伯爵家当主としての名を記す。その動きには一切の躊躇がなく、普段から数多くの文書に署名していることを感じさせた。
次に、テオバルトの前へと運ばれる。ペンを受け取った彼はほんの一瞬だけ視線を落とし、それから丁寧に自らの名を綴る。筆運びは慎重で、ひとつひとつの文字を確実に書き記していく様子が、彼の性格そのものを表しているようだった。
そして最後に、証書は目の前へと運ばれた。ペンを手に取る指先がわずかに震える。深く息を吸い込み、意識を落ち着かせるように指をわずかに握り直した。 視線の先には、先に記された名が並んでいる。大公の名、ジークベルトの名、そしてテオバルトの名。
そのどれもが、この婚約を確かなものにしようとしている証。そしてそれは、自分の名前によって完成する。
少しだけ喉を鳴らし、ペンを走らせる。自分の名前を書くというただそれだけなのに、今この瞬間、それは人生を変える呪文のように思えた。
指先に意識を集中しすぎて、いつもよりもゆっくりとした筆運びになる。それでも一文字ずつ確かに書き記し、最後の一筆を引いた。
ペンを置いた瞬間、心臓が高鳴る。これですべてが決まったのだと、遅れて実感が湧いてくる。視線を上げると、テオバルトの琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。その眼差しが穏やかだったことに、思わず安堵の息が漏れる。
証書を受け取った文官が、一礼してそれを丁寧に持ち上げる。
「これをもって、正式な婚約とする」
ハインリヒが静かに告げ、証書に封蝋が落とされる。印章が押された後、蝋が固まる微かな音が室内に響いた。
◇
文官が証書を持って静かに退室し、謁見室には四人だけが残された。
オフィーリアは静かに息を吐く。肩に乗っていた緊張がゆっくりと解けていく感覚がした。視線を上げると、ハインリヒがゆるりと背もたれに体を預ける。先ほどまでの儀礼的な雰囲気から、ほんのわずかに空気が和らいだように感じた。
「これで、ようやく正式な婚約となったわけだな」
大公の言葉に、テオバルトが背筋を伸ばしたまま頷く。
「はい。ご尽力に感謝いたします、大公閣下」
テオバルトの声音はまだ丁寧なままだったが、どこか穏やかさも滲んでいる。それを受けて、ハインリヒが口元をわずかに上げた。
「もう少し砕けてもいいだろう?」
「公式の場で、そうも参りません」
相変わらず堅いなと、ハインリヒは軽く肩を竦める。それを見てテオバルトもわずかに表情を和らげる。
そのやり取りを聞きながら、オフィーリアはふと、二人の関係性が長い時を経て築かれたものなのだと改めて実感する。
ハインリヒの視線がジークベルトへと向けられた。その蒼の瞳は、淡々としていながらもどこか柔らかい光を宿している。
「伯爵家には、これからも変わらず役目を果たしてもらおう」
静かに告げられた言葉は、形式的なものではなく、確かな信頼を含んでいるように感じられた。
ジークベルトはわずかに瞼を伏せ、無駄な言葉を挟むことなく頷く。その仕草は重々しくも自然で、彼がどのようにこの責を受け止めているのかを雄弁に物語っていた。
伯爵家の当主としてすでに数多の責務を背負っているはずだ。けれど、その双肩にさらに重ねられる期待を前にしても動じる様子はない。その姿を見ていると、彼がどれほどこの立場を当然のものとして受け入れているのかが伝わってくる。
静寂が一瞬だけ場を満たし、それを断ち切るようにジークベルトがゆるやかに席を立った。
「では、私はこれで失礼させていただきます」
必要な役目は果たしたと言わんばかりの端的な言葉。それ以上の説明もこの場には必要ないのかもしれない。ハインリヒは特に引き留めることもなく、小さく頷くだけだった。
ジークベルトは一礼すると、テオバルトとオフィーリアに一度だけ視線を向ける。何かを言いかけるような間があったが、結局言葉にはせず、そのまま踵を返して静かに部屋を後にした。
扉が閉まると、室内にはハインリヒとテオバルト、そしてオフィーリアの三人だけが残る。
ハインリヒの蒼い瞳が自分に向けられた瞬間、オフィーリアはすっと背筋を伸ばす。
「さて——おめでとう、と言うべきだな」
改めてそう告げられると、オフィーリアは胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。婚約証書に名を連ねた瞬間、確かに実感したはずだった。それでもこうして直接言葉をかけられると、まるでそれがもうひとつの証明のように思える。
「閣下のお力添えに、私からも深く感謝申し上げます」
軽く頷きながら、オフィーリアはしっかりとハインリヒの視線を受け止めた。その眼差しにはさりげない優しさと好奇心が滲んでいるようで、ただの儀礼的なものではない気がした。
「あのテオバルトがここまで心を傾ける相手がどのような人物なのかと思っていたが、あなたに直接会うことでその理由が少しわかった気がするな」
蒼い瞳がわずかに細められる。
「いずれまた、正式な場でお会いできることを楽しみにしている」
その穏やかな言葉が、まるで先ほど結ばれた婚約の証をもう一度確かめるように、静かに響いた。
◇
謁見室を後にしてテオバルトと共に廊下を歩くうち、オフィーリアは少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。大公を前にした正式な場——それがどれほどの緊張が伴うものだったのかを、改めて実感する。
謁見室を出ると、長く張り詰めていた緊張が少しずつ和らいでいくのを感じた。静かに息を吐きながら歩を進める。来るときは周囲に目を向ける余裕などなかったが、周囲の人々がこちらに視線を向けていることに気付く。
すれ違う者たちは皆、控えめながらも関心を隠そうとしない様子だった。大公城の奥深く、この場にテオバルトと共にいるだけで注目を集めるのは当然のことかもしれない。けれど、その一部に、ただの好奇ではない、どこか慎重な色を含んだ目があるのを感じる。
「気疲れしたことでしょう。少し休んでいきますか? 部屋を用意させますよ」
テオバルトが穏やかに問いかけた。柔らかな声音ではあったが、その視線には、先ほどから向けられる人々の関心を察し、気遣う意図が込められているように思えた。
「いいえ、大丈夫です」
オフィーリアは微笑みながら首を振る。先ほどの緊張はまだ完全に解けたわけではないが、これ以上、気を張り詰めたままでいる必要もない。
胸の内でゆっくりと整えるように息を吸い込み、歩みを進めようとした。
「これはまた、珍しい光景ですね」
落ち着いた声が廊下に響き、足を止める。穏やかで、どこか余裕を感じさせる口調だった。振り返ると、年の頃は四十代ほどの男性がこちらへ歩み寄ってくる。
ゆったりとした動きには貴族特有の品があり、細やかに整えられた装いからも高い身分がうかがえた。
テオバルトは彼の姿を認めると、微かに目を細める。
「ご無沙汰しております、エルンスト閣下」
その名を聞き、オフィーリアは瞬時に記憶を巡らせる。ラウレンティア王国の宰相を務める、エルンスト・クラウエンホーフ——この国の政治に深く関わる、重要な人物だった。
「あなたがこうして女性と歩いているのを見るのは、実に新鮮だ。もしかして、噂のご婚約者かな? 屋敷に閉じ込めんばかりの溺愛ぶりだと聞いているが」
興味を隠そうともしない口ぶりで言いながら、彼はオフィーリアへと視線を向けた。
「ええ、誇張ではありません」
何の躊躇いもなくそう答えたテオバルトに、エルンストは一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「ご紹介しましょう。私の婚約者、オフィーリアです」
その言葉がこの場に静かに響いた。ひどく当たり前のように、それでいてどこか誇らしげにも思える声音。オフィーリアは一拍の間を置いて、丁寧に一礼する。
「はじめまして。お目に掛かれて光栄です、閣下」
名乗った瞬間、エルンストが興味深げに眉を上げた。その反応に、次に来る問いを予感する。
「ほう……それで、どちらの家門のご令嬢かな?」
穏やかな口調のままに発せられた問いは、これから顔を合わせるだろう誰もがいずれ向けるであろう当然のものだった。
貴族社会において、出自を問われるのは避けられない。一瞬の間を置いて、テオバルトが優雅に口を開く。
「彼女は家門には属しませんが、婚約者として大公閣下の承認を得ております」
その返答は余計な説明を省きながらも不自然さを一切感じさせない、完璧なものだった。
曖昧さを残しつつも、決して軽んじるべき存在ではないと伝える、絶妙な言い回し。エルンストもそれを理解したのか、ゆるやかに頷く。
「なるほど。いずれは、正式な発表があると?」
自然な流れで向けられた問いに、テオバルトは迷いなく答えた。
「ええ、いずれ。無理のない形でと、考えております」
端的ながら、オフィーリアを第一に考えていることが伝わる言葉だった。エルンストはその返答に満足したのか、微かに口元を緩める。
「それはそれは……では、その日を楽しみにしていますよ」
微笑の奥に、試すような色が滲んだ気がした。彼の言葉は社交辞令のようでいて、そうではないのかもしれない。自分たちの傍らを通り過ぎていく女官や兵士たちがさりげなく様子を伺っている気配を察しながら、オフィーリアはそっとスカートの陰で両手の指を組む。
この眼差しに晒される日々が再び始まろうとしてる——そう思うと、一瞬だけ懐かしい緊張が胸をよぎる。けれど今は、隣にいるテオバルトの存在がその重みを支えてくれる。彼のために、そして自分自身のためにも、この新しい世界で堂々と歩んでいこう。
組んでいた指を静かに解き、オフィーリアは穏やかに微笑んだ。すべての不安が消えたわけではない。それでも前を向く勇気が確かに芽生えていた。




