第五十九話 誓いの朝に
今日は、正式な婚約を結ぶ日。自分の身支度を整えたあと、出発までほんの少しだけ時間があった。じっと待つのは落ち着かなくて、気付けば自然と庭へ足を向けていた。
朝の澄んだ空気が肺を満たす感覚が心地良い。伯爵家を訪ねる日の朝は緊張ばかりだったけれど、今この胸にあるのは、これから先への期待。
裾を汚さないよう、慎重にスカートを持ち上げながら歩く。やわらかな象牙色のドレスは、朝の陽を浴びて上品な輝きを放っている。襟から胸元にかけて施された繊細なレースが光を含んで煌めく。
裾に行くほど深みを増す色合いのスカートには、まるで花々が咲くように、控えめな刺繍が散りばめられていた。
今回もきちんと首元まで詰まっている。これから向かうのは大公城。その威厳ある場所に相応しい、慎ましやかで凛とした装いを選んだのだ。
胸の中で心臓が静かに脈打つ音が聞こえる。緊張もするけれど、それよりも今は期待のほうが大きい。
オフィーリアは無意識に耳元に手を伸ばした。そこに揺れる真珠のイヤリングはテオバルトから贈られたもの。——彼はもう支度を終えただろうか。
ふと視線を上げると、木漏れ日が緩やかに揺れている。風に運ばれた花の香りがふわりと花を掠めた。背後から近付いてくる足音に気付いた。振り返るより早く、聞き慣れた声が耳に届く。
「お迎えに上がりました」
気取ったような言葉遣いに、思わずオフィーリアは笑みをこぼす。いつも通り穏やかで落ち着いた声音だけれど、どこか機嫌の良さが滲んでいる気がする。
「今日は特別な日ですからね」
軽く微笑んでそう続けたテオバルトが片手を差し出す。オフィーリアは少しだけ目を見開き——そして優雅に一礼して、その手を取った。
温かな掌に包まれる指先に、これから始まる特別な一日への期待が、静かに膨らんでいく。
◇
ラウレンティア大公城は、堂々たる佇まいを誇っていた。
白灰色の石造りの城壁が陽の光を受けて輝き、広々とした庭園には手入れの行き届いた草木が生い茂っている。荘厳ではあるが、閉鎖的な威圧感はない。むしろ、開かれた空間の美しさが際立っていた。
広大な敷地を抜け、案内されたのは城の一角にある控え室。広々とした室内には、大きな窓から柔らかな光が差し込んでいる。
扉が開かれ、案内された控え室に足を踏み入れると、すでにひとりの人物がそこにいた。窓辺に立ち、外を眺めていた男が、足音に気づいてゆっくりと振り返る。
「兄上、本日はお時間を割いていただき、ありがとうございます」
テオバルトの言葉に、ジークベルトは静かに頷いた。深い紺の礼服に身を包んだその佇まいからは、いつも以上に伯爵家当主としての威厳が漂っていた。胸元を飾る伯爵家の紋章が、朝の陽を受けて煌めく。
「これも当主の勤めだ。気にすることはない」
その声は相変わらず淡々として、責任を重んじる彼らしい厳格さが滲んでいる。
「本日はどうぞよろしくお願いいたします」
テオバルトの隣でオフィーリアも丁寧に一礼する。顔を上げると、ジークベルトの翡翠の瞳がじっとオフィーリアを見つめた。伯爵邸で対面した時と同じ、何かを見極めようとする眼差し。それでも、以前ほどの厳しさはない気がする。
「……まあ、座るといい」
低く静かな声に促され、オフィーリアはテオバルトと共にそっと椅子へ腰を下ろした。
テオバルトの装いは、普段の外務卿としてのものとは違い、今日という日のために選ばれたものだった。濃い灰色の上下に白いシャツを合わせ、そこにシンプルな銀のタイピンが静謐な輝きを添えている。
その袖口を飾るカフスボタンに、さりげなく伯爵家の紋章が刻まれていることに気がついた。精巧な細工が施された小さな金属の中に、盾を背景に剣を抱く獅子の姿がある。その周りを囲む月桂樹の葉が、光を受けて静かに輝いていた。
彼の左手の薬指にも、同じ紋章を刻んだ指輪が嵌められている。これまで意識したことはなかったが、こうして改めて見ると、それはまるで彼が背負うものの重みを象徴しているかのよう。
今日の彼は侯爵でも外務卿でもなく、ただレーヴェンハースト家の一員として此処にいる。自分もまたその一員となり、共にその重みを分かち合えるようになりたい——そんな想いが、静かに胸の内で膨らんでいく。
待機室には大公城らしい静けさが満ち、窓から差し込む柔らかな陽光が室内を照らしている。
ジークベルトは背もたれに軽く体を預け、組んだ腕を解くと視線を向ける。
「しかし、婚約の証人が大公閣下とは……大掛かりなことだな」
「これも必要なことです」
テオバルトは迷わず答える。ジークベルトは深く頷いたが、その表情はどこか思案するようでもあった。
「……お前もよく、ここまで手を尽くしたものだ」
オフィーリアはそんな二人のやり取りを静かに聞いていた。大掛かりなこと——彼にそう言わしめるほど、やはりこの婚約は特殊なものなのだ。
ラウレンティア大公国では、貴族と平民は結婚できない。
しかし、かつて歌姫としてエストリエ王家に仕えていたこと、その名声が各国に広まっていたことで、オフィーリアの存在は公的に認知されている。貴族ではないにしても、完全に一般の平民と同列に扱われるべきではない。
そして今、オフィーリアはラウレンティア大公の庇護下にある。大公がその身元を保証することで、特例としてこの婚約が認められるのだ。
オフィーリアの指先が無意識な組まれる。一介の孤児だった自分が、今は大公の庇護の下にある。テオバルトがどれほどの配慮を尽くしてくれたのか、その深い想いを思うと、胸が熱くなる。
その時、部屋の扉が軽く叩かれ、控えめな声が響く。
「レーヴェンハースト卿、大公閣下がお話があるとのことです」
そう告げたのは大公の側近らしき人物だった。服装や態度からして、儀礼を重んじる近習のように見える。
「わかりました。すぐに参ります」
テオバルトは立ち上がり、オフィーリアへと一度視線を向ける。その琥珀色の瞳には一瞬の逡巡があったが、すぐに落ち着いた声で告げた。
「すぐに戻ります。しばらく待っていてください」
「はい」
オフィーリアが小さく頷くと、テオバルトは短く礼をして部屋を後にした。扉が閉まると、室内に静寂が落ちる。
ジークベルトの斜め向かいに座ったまま、オフィーリアはふと手元に目を落とした。テオバルトがいなくなったことで、沈黙がより濃く感じられる。
何か話した方がいいだろうか。けれど、気軽に言葉を交わせるほど親しい間柄ではないし、彼の性格を考えれば、無理に会話を繋ぐ必要もないのかもしれない。
迷いながらも少し視線を上げたとき、ジークベルトが静かに口を開いた。
「先日の席でマティアスは必要なことを言ったつもりだが、厳しすぎたかもしれんな。もし気に病んでいるのなら言葉をかけておこう」
唐突な言葉に、オフィーリアは一瞬驚いて目を瞬かせた。伯爵家を訪問したあの日、マティアスの厳しい問いかけは確かに容赦なかった。
だが後日、オフィーリアが送った礼状の返事には『少し言い過ぎたかも知らない』と彼の一言が添えられていた。『これからも弟を頼ってやってほしい』とも。
「伯爵家の皆様が、私の覚悟を確かめようとされたお気持ちは理解しております。私にとって必要な問いかけでした。ご心配には及びません」
オフィーリアの言葉に、ジークベルトが少しだけ眉を上げた。
「そうか。それならば、案じることはなかったな」
その静かな声音に、オフィーリアはそっと頷いた。思いがけずマティアスの気遣いを知り、厳格なジークベルトからもこうして労わる言葉をかけられるとは思わなかった。
彼の左手にも、伯爵家の紋章を刻んだ指輪が嵌められている。テオバルトの指輪と同じ、家族の証。
どれほど厳しくとも、その根底には変わらぬ誠実さがある。改めて考えると、やはり三人はどこかよく似ている。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
扉の向こうから足音が近づいてくる気配がした。オフィーリアがそっと顔を上げると、扉が開き、テオバルトが戻ってくる。琥珀色の瞳が室内を一瞥し、オフィーリアとジークベルトに視線を向けた。
「お待たせいたしました。用意が整ったそうです。行きましょう」
静かな声に促されて立ち上がる。差し出された手を取ると、温かさが指先から伝わる。
扉が開かれ、控え室の外には儀礼服をまとった近習が控えていた。大公の待つ部屋へと向かうために、一同は静かに歩みを進める。オフィーリアは心を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。
これから正式に結ばれる。そのことを改めて意識しながら、テオバルトの隣を歩いていく。




