第五十八話 ひとつの想いに還るとき
長い緊張の時を経て、ようやく二人きりの時間が訪れた。家族との対面がひと段落ついたところでテオバルトから庭園の散歩を提案された時、オフィーリアは一も二もなく頷いた。
午後の陽射しがやわらかく降り注ぎ、石畳に揺れる木漏れ日が二人の歩みを包み込む。付き添い人と護衛たちは礼儀正しく距離を取り、二人は静かな庭園を並んで歩いていた。伯爵邸の庭はよく整えられており、整然と並ぶ花壇や生け垣が公都にあるとは思えぬほどの静けさを生み出していた。
テオバルトの持つ日傘の下、オフィーリアは肩の力を抜くようにゆっくりと息を吐いた。朝からずっと胸の中に渦巻いていた緊張が、ようやく少しずつ解けていくのを感じる。心臓の高まりが収まり、代わりに深い安堵感が全身を包み込んでいく。
「……私、思っていたより緊張していたみたいです」
ふと漏れた言葉に、テオバルトが静かに視線を向ける。その琥珀色の瞳には、どこか誇らしげな光が宿っている。
「あなたの受け答えは立派でしたよ。堂々としていました」
その声には深い愛情が滲んでいて、オフィーリアの胸を暖かくする。
「そんなふうに見えていましたか?」
思わず上目遣いで問いかけると、テオバルトの表情が柔らかく緩む。
「はい。私には誇らしく思えました」
柔らかな口調ながら、その言葉には一片の迷いもない。オフィーリアは密かに嬉しさを噛み締める。この人に誇らしく思ってもらうのは、こんなにも幸せなことなのだ。
「……それにしても、兄の無遠慮な発言は気に障ったでしょう。本当に——」
「いいえ、もうお気になさらないでください!」
思わず声が大きくなったが、それを気に留めることもなかった。なにしろ、こうしてテオバルトが謝罪を口にするのは、庭園の散策を始めてからもう三回目なのだから。
「テオバルト様が謝ることではありません。確かに厳しいお言葉でしたが、私の覚悟を確かめようとされたのだと、今はそう理解しています」
少し考えながら言葉を選ぶ。以前の自分なら、あの言葉を真正面から受け止めることはできなかったはずだ。しかし、不慣れながらも言葉を返すことができた。それもまた、彼と過ごした日々が教えてくれたことなのかもしれない。
「次はもっと落ち着いて対応できるようにしたいと思います」
そう告げると、テオバルトはわずかに眉を寄せ、深い息を吐いた。その表情には明らかな心配の色が浮かんでいる。
「……できることなら、そんな機会が訪れないでほしいのですが」
オフィーリアを見つめる琥珀色の瞳が、一瞬だけ深く揺れる。その気持ちはとても愛おしい。けれど、きっとそうはいかないのだと、オフィーリアは静かに心に刻む。守られるばかりではなく、自分もまた強くならなければいけない。その決意が新たな覚悟として胸に芽生えていく。
会話の余韻を感じながら、ふと目を伏せた瞬間、柔らかな風がそっと吹き抜けた。軽やかに揺れるスカートの裾を見て、オフィーリアはようやく、自分の装いを意識する余裕が生まれたことに気付く。
この日のために新調した淡黄色のドレスは陽光を浴びで柔らかな輝きを放ち、白糸で施された精緻な刺繍が光の加減で浮かび上がる。
きっちり喉元まで締まった慎ましいデザインであるものの、袖や裾には共布のフリルと白いレースが優雅な軽やかさを添えている。室内用のドレスとはまた違う、華やかさと清楚さを併せ持つ素敵な一着だった。
久しく華やかな装いを避けてきた身には未だにくすぐったいような感覚がある。けれど、ふと隣を歩くテオバルトを見て、心のどこかが静かに満たされるのを感じた。
テオバルトは落ち着いた深緑の上着に白茶色のベストを合わせていた。凛とした佇まいに相応しい格式ある装いが、均整の取れた身体にぴったりと馴染んでいる。
その服もオフィーリアと同じメゾン・ヴァイスリリーであつらえたもの。襟元にはごく淡い黄色の糸が織り込まれており、自然とオフィーリアのドレスと調和している。二人の装いが寄り添うように馴染むその様子に、密やかな幸せを感じる。
いつもながら美しい金褐色の髪は、陽射しを浴びて柔らかな輝きを帯びている。凛々しい横顔に目を向けるたび、オフィーリアは思わず息を呑みそうになる。この人のそばにいられることが、まるで夢のようで——そんな想いを胸の奥でそっと膨らんでいく。
薔薇の香りが風に乗って漂う中、二人の足取りは自然とガゼボへと向かう。木陰に佇むその白い建物はまるで二人を誘うかのように、静かに佇んでいる。石造りの柱に沿うように咲く薔薇は風に揺れながら仄かに甘い香りを漂わせて、午後の陽射しを透かした白いアーチが繊細な影を石畳に落とす。
ガゼボの中で並んで腰を下ろし、オフィーリアは改めてぐるりを庭を見回した。伯爵邸の庭は、公都の邸宅としては十分すぎるほどの広さを誇っていた。整然と手入れされた生け垣が規則的に並び、左右対称に配置された噴水が涼やかな水音を奏でている。
石畳の小道は幾何学模様を描きながら広がり、そこを彩る花々は季節ごとに美しく咲くよう計算されているのだとテオバルトが教えてくれた。
シュルテンハイム公爵邸の庭が自然の美しさを活かした風雅な造りであるのに対し、こちらはより洗練され、人工的な美を意識した整備がなされている。
手間を惜しまず刈り込まれた樹々、色とりどりの花壇、精巧な装飾。まるで王宮の庭園を縮小したかのような、華麗さと秩序のある庭だった。
「とても素敵なお庭ですね」
「ええ、私が幼い頃から綺麗に整えられていました」
テオバルトがそっと微笑む。
「今はあなたが隣にいるからこそ、一層美しく見えます」
何気ない感想に返された言葉は、思いがけず甘やかだった。その言葉に驚いて顔を上げれば、美しい琥珀色もまたこちらを見つめている。ただ静かに見つめられているだけなのに、何かが胸の奥で熱を持ち始めた。
テオバルトがそっと身体を寄せる。二人のあいだにあったわずかな隙間が埋められ、午後の穏やかな陽光と風の感触がどこか遠くなる。それなのに、自分の心臓の音だけがやけに鮮明に響いた。
「リア」
自分の名前を呼ぶ声が、いつもより甘く響いているような気がした。
「あんなにも熱烈な言葉をいただけるとは思っていませんでした」
囁くような声がすぐそばで落とされる。穏やかで、けれど抗えないような熱を帯びていて、その温かさに息を呑む。
「あなたの言葉が、まだ胸に響いているような気がします」
琥珀色の瞳がこれまでにないほど近くにあって、その色合いの美しさに見とれてしまう。ゆるりと細められた瞳に秘められた想いが、まるで溢れ出しそうなほどに。心臓が高鐘を打つ音が、自分の耳にだけ響いているような気がした。
「……どう思われました?」
オフィーリアが問いかけると、目の前の琥珀色がわずかに揺れた。大きな手のひらが赤らむ頬を包むように触れる。
「——とても嬉しかった」
深く、静かに、視線が絡む。その先に待つ甘やかなものを期待しながら、オフィーリアはそっと睫毛を伏せた。
そっと落とされた口付けは、春の風のような温もりを残して消えていく。
これまでも手の甲や指先に、時には髪にも、そっと触れられることはあった。その一瞬の触れ合いだけで胸は十分に満たされていたのに。今は何故か、違う。離れゆく温かさに、切ない痛みすら感じる。
どうして今日は、こんなにも物足りないのだろう。その戸惑いを抱えながら、オフィーリアは思わず、未だ自分の頬にあるテオバルトの手に自分の片手を重ねていた。この温もりを、もう少しだけ感じていたくて。
テオバルトの指が頬に触れたまま、わずかに滑るように動く。その仕草に漏れた小さな吐息。顔を上げた時、テオバルトの瞳が熱を帯びたように揺らめき——その視線に捉えられる。
◇
小さな手が重ねられた瞬間、テオバルトは息を詰めた。
その感触は儚く、まるで蝶が羽を休めるよう。拒むでもなく、求めるでもない。けれど、確かに存在する温もり。その曖昧さに、心が大きく揺れる。
視線を落とすと、オフィーリアがこちらを見上げていた。どんな宝石にも例えられない美しい色が、今は自分だけを見ている。その奥に潜む感情を知りたくて、目を逸らすことができなかった。
「……リア」
名を呼んだ声が、自分のものとは思えないほど低く響く。自制が効くうちにやめるべきだと意識のどこかで警鐘が鳴る。それでも、頬に触れた手を引くことができない。
あの時のオフィーリアは、まるで歌うように愛を語っていた。その姿がどれほど美しかったか――きっと本人は気付いていない。今もなお耳に残るあの言葉の数々が自分に向けられたものだと思うと、誇らしさと戸惑いが入り混じる。
あれほどの純粋な想いのすべてを、自分が受け止めてもいいのだろうか。そんな迷いが今もどこかにある。それでも彼女が自分を選んでくれるならば、隣でその想いに応えたい。
躊躇いを手放すように、そっと唇を寄せた。一度目よりも、もう少し長く。確かめるように、愛おしむように。オフィーリアはわずかに睫毛を震わせ、吐息を漏らした。その仕草に、残された理性すら溶かされそうになる。
離れた時、オフィーリアの頬が薔薇色に染まっていた。普段は慎ましげな彼女が、今は恥じらいながらもどこか物憂げな瞳で見上げてくる。
「愛しています、リア」
その言葉にオフィーリアが小さく頷き、その瞳が潤む。抱き寄せると、彼女はすんなりと身を委ねてくる。まるで宝物を抱くように、慎重にその身体を腕に留めたまま——三度目の口付けを落とす。今度はただ、深い愛情を込めて。




