第五十七話 その愛を証明する日まで
問われるまでもなく、オフィーリアは自分がテオバルトに惹かれた理由を何度も何度も胸の中で確かめてきた。けれど、いざそれを言葉にするとなると、不思議とどこか落ち着かない心地になる。
彼がどれほど優しく、自分を大切にしてくれているかを考えるたびに、今でも胸が熱くなる。その想いは日に日に深くなるばかりで、時として声を詰まらせるほどに。
「……テオバルト様は、私の心の声に耳を傾けてくださる方です」
その一言を紡ぎ出した瞬間、胸の奥が熱く波打つ。
「どんな小さな言葉も決して見落とさず、私が何を思い、何を感じているのかをいつも汲み取ってくださいます」
一つ一つの言葉に、これまでの記憶が重なっていく。
「決して急かさず、押し付けず、私が踏み出す一歩に寄り添ってくださる優しさに、私はどれほど救われたかわかりません」
オフィーリアの意志を求め、選択を委ね、未来を共に考えようとしてくれた。歌姫としての価値がなくても、それでも良いと。今ここにいるオフィーリアが良いのだと告げられた時の、あの温かな眼差しが、今でも心を揺さぶる。
お互いの身分を考えた時、この人を好きになってはいけないと必死に思った。けれど、そう自分に言い聞かせている時にはもう、心は取り返しのつかないほど彼の中に沈んでいたのだ。
「それだけではなく、私の不安や迷いもすべて包み込んでくださいました。テオバルト様のお言葉の一つ一つが私を導く光のようで……そのすべてが、私にとってはかけがえのないものなのです。これほどまでに愛情深い方を私は他に知りません」
声がわずかに震える。それは喜びのためか、感謝のためか、もはや自分でもわからない。
初めて抱き締められた夜のことは、今でも鮮明に心に刻まれている。月明かりの差し込む部屋で、不安や葛藤もすべて腕の中に迎え入れてくれた、あの温もり。自分は本当に大切にされているのだと——大切にされてもいいのだと、心の底から感じられた瞬間。
言葉を紡ぎながら、オフィーリアは自分でも驚いていた。これまで胸の奥に秘めていた想いが、まるで春の雪解けのように溢れ出している。
いや、本当はずっと前から言いたかったのだ。彼にどれほど救われたか、どれほど愛おしいと思っているのか——そのすべてを伝えたくて仕方がなかった。
そして今、ようやくその想いを言葉にできた喜びが、静かに、けれど確かに胸を満たしていく。
「確かに真面目すぎる一面もお持ちですが」
思わず微笑みが溢れる。
「それもまた信念をお持ちだからこそ。私はテオバルト様のそうした生き方にも深い感銘と尊敬を抱いております。時に厳しいお言葉をいただくこともあります。けれど、その時でさえ、その眼差しには深い愛情が宿っているのです」
それでも彼はどこか不思議な存在だった。いつも穏やかで、決して強く何かを押し付けてくることはしないのに、気付けば彼の言葉に導かれて、自然と最善の道を歩んでいる自分がいる。まるで月が潮を引くように、静かに、けれど確かな力で。
きっと、ただ誠実で優しいだけの人ではない。今も自分の知らないところで、様々なことが抜かりなく計画されているのだろう。時々見せる鋭い眼差しに、思慮を秘めた物腰に、そんな気配を感じることがある。
けれどこちらに向けられる想いには、ただ一片の私利もない。ひたすらに真摯で、深い愛情に満ちている。それは澄んだ泉のように清らかで、深い湖のように温かい。
オフィーリアを守るためならどんな手段も惜しまない。その想いの強さは、時として周囲を戸惑わせるほど。でも、だからこそ、この人の愛を疑うことなどできない。
胸の前でそっと指を組めば、そこに宿る煌めきが目に入る。指輪をもらったのはほんの数日前なのに、冷たい金属はいつしか自分の身体の一部のように肌に馴染んでいる。まるでこの指輪のように、彼の愛もまた、確かな温もりとなって心に寄り添っているのだと。
オフィーリアの言葉に熱が籠るにつれ、部屋の空気が少しずつ変わっていく。ジークベルトが片眉をわずかに上げ、マティアスの口元が緩み始めている。ヘムルートはあたたかな眼差しでオフィーリアの言葉に静かに耳を傾けているようだった。
オフィーリアの視線が、自然な動きで隣に向けられる。そこにいる愛しい人の姿を見る、ただそれだけのことで胸に喜びが満ち、新しい想いが——言葉が、溢れてくるよう。
「テオバルト様の——」
室内の柔らかな光を受けて、彼の髪が金褐色の輝きを帯びている。それは指先でそっと触れたくなる衝動に駆られるほどの美しさ。
いつも穏やかな光を宿すその琥珀色の瞳が、時に鋭い光を宿すことを知っている。けれど愛を告げる時は、まるで煮詰めた蜂蜜のような甘さを帯びる。その深い色合いを向けられるのは自分だけ。それはもう思い上がりではなく、紛れもない事実。
隣に立てば見上げるほどの背丈は、まるで自分をすべてから守ってくれるかのよう。鋭く整った横顔はどこまでも凛々しく端正だ。すっと通った鼻筋、微笑むときだけ柔らかな弧を描く唇。一つ一つの仕草に秘められた誠実さがそこにはあった。
「——その眼差しが、微笑みが、私の名前を呼ぶ響きが、なによりも愛おしくて……その手に触れるたびに知る温かさを、きっと幸せと呼ぶのでしょう」
その時、ふと視線が絡んだ。
テオバルトの琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを捉えている。
揺れて、戸惑って、それでも抗おうとする気配があった。
けれど、オフィーリアが言葉を紡ぐたびに、その光は次第に崩れていく。
「あなたを愛していること、その想いを誇れることが、私にとって何よりの幸せです」
そして、最後の一言を口にした瞬間——彼は静かに息を呑み、そっと視線を落とした。
「……リア、どうか、そのあたりで」
戸惑いを滲ませた、掠れた声。テオバルトの横顔には、いつもの落ち着いた表情はなかった。琥珀色の瞳は揺れ、何かに堪えるように唇を引き結ぶ。しかし頬から耳へと広がる赤みが、その内心を雄弁に物語っている。
そこでオフィーリアはようやく我に返った。まるで夢から覚めたように、自分が何を語っていたのかを思い返す。
「大変失礼いたしました。つい、気持ちが昂って……」
なるほど、と、ヘムルートが穏やかに目を細めた。柔らかく頷くその表情に、深い満足と安堵を見た気がした。どこか遠くを見るように細められたその瞳は、色こそ違えどテオバルトと同じ深い慈愛に満ちている。
「息子をそのように深く想ってもらえるとは、親として誇らしく思うよ。……妻にも聞かせたいものだ」
その言葉に、テオバルトが小さく息を呑む音が聞こえた。
静謐な空気が一瞬満ちたと思うと、マティアスが茶目っ気を含んだ声を重ねる。
「歌姫に愛を語らせるのですから、こうなるのも必然でしょう。これは父上が悪いと思いますよ」
そう言いながら彼は、弟の赤く染まった横顔を愉しげに見つめている。
「ねぇテオ。まだまだ続きがありそうだけど、聞いてみる?」
揶揄うような兄の言葉に、テオバルトは微かに眉を寄せたものの、すぐに視線を逸らし、沈黙を保った。だが、その端正な横顔には明らかに熱が上っており、耳の先まで赤く染まっている。
「そのうち、テオを題材にした詩集が書肆に並ぶかもしれませんね。兄上はどう思われます?」
「……まるで歌劇の一幕を見せられているようだった」
ジークベルトが低く呟く。その声音には呆れが滲んでいたが、どこか感嘆のような響きもあった。
「……兄上方、この話題はもう十分だと思いますが」
テオバルトの声はかろうじて威厳を保とうとしているものの、その端々には未だ明らかな動揺が滲んでいた。紅茶に手を伸ばすその指先まで微かに震えているように見える。その仕草があまりに愛らしく、オフィーリアは思わず微笑みを隠すように顔を伏せた。
「想いの深さは十分に伝わった」
ジークベルトが静かに言葉を重ねる。
「だが、その想いゆえに、一つ確認しておきたいことがある」
翡翠の瞳が、真摯にオフィーリアを捉える。その眼差しには兄としての慈愛と、当主の後継として家を案ずる深い思慮が混在していた。
「これからあなたが歩む道は決して平坦ではない。貴族社会には独特の慣習があり、時として理不尽な圧力もある。その覚悟はあるのか?」
厳しさを含むその問いに、オフィーリアは一瞬だけ背筋を伸ばした。しかし、その瞳に宿る温かみを感じ取って、静かに答える。
「……私の存在が、伯爵家にとってご迷惑になることもあるかもしれません。それでも、ここで生きていくと決めた以上、相応しくあろうと努力するつもりです。ですが、それでも至らぬことがあれば、どうか、ご指導いただければと思います」
その言葉に込められた決意を見極めるように、ジークベルトはしばし黙してオフィーリアを見つめた。その視線に、厳しさの中にある暖かみを感じる。これは試練であって、否定ではない——そう感じ取れたからこそ、オフィーリアは真っ直ぐにその瞳を見返した。
「そうか」
静かに告げたジークベルトは、ふと視線を横に流す。
「……テオバルト、お前の考えも聞かせてほしい」
その言葉に、テオバルトがわずかに息を整えるように姿勢を正した。先ほどまでの照れや戸惑いは影を潜め、代わりに静かな落ち着きと、揺るぎない意志が滲んでいる。
「彼女は自分の足で立ち、考え、そして前に進むことのできる女性です。その誠実さと決意は、この場にいる誰より私が知っています」
琥珀色の瞳が、一瞬オフィーリアへ向けられる。その眼差しには、深い信頼と愛情が満ちていた。
「これまでも、そしてこれからも、共に歩んでいくことを私は誓いました。その覚悟は、決して揺らぐことはありません」
オフィーリアの胸が、強く震えた。こんなにも深く信じてくれる人が隣にいる。この人となら、どんな風が吹こうとも、自分は前を向いて歩いていける。その想いが、静かな誓いとなって心に沈んでいく。
「その覚悟が本物かどうかは、これからの日々が証明することになるだろう」
ジークベルトの言葉には冷たさはなく、ただ静かな重みだけがった。それは伯爵家の当主として、そして兄として、示さなければならない厳しさなのだと、オフィーリアも理解している。
マティアスが腕を組みながら、穏やかに口を開く。
「過度に庇うことは却って彼女の歩みの妨げになる。その点は心に留めておくといい」
それは単なる忠告以上の、兄としての深い慮りだった。守ることと、成長を見守ること。その両方の大切さを説く、優しい諭しのような言葉。テオバルトはその言葉に、わずかに考えるような沈黙を置いた後、静かに頷いた。
その様子を見届けながら、ヘムルートが穏やかに口を開く。
「……いずれにせよ、時間はまだ十分にある。焦ることはない」
厳しさと優しさの混じるその言葉に、オフィーリアはそっと息を吐いた。今すぐに全てを認められたわけではない。しかし、それでいいのだと思えた。
これからの日々の中で、自分の覚悟を示していけばいい。その隣には、いつも彼がいるのだから。




